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自閉症の子どもは話せるようになるのでしょうか?

 「私の子どもが自閉症と診断されました。将来話せるようになるのでしょうか?」私の相談室にも時折こういった内容の質問の電話がかかってきます。残念ながら「分かりません。」と答えるしかありません。基本的に自閉症と診断された時点で、何らかの言語の遅れがあると認められた(そうでなければ診断されない)訳ですから、言語の発達に危惧があることは確かです。自閉症と診断される方の中の、会話が完全にできない方もかなりの割合でいるでしょう。ただし私の経験からすれば必ずしも「話せるようにはならない」ということはありません。診断された方の中にも、少数派かもしれませんが将来会話ができるようになる人もおられます。早期の治療教育が功を奏したのかもしれませんし、もともと診断が間違っていたのかもしれません。  「会話が出来る」と一言で言っても、色々です。片言でしか話せない場合もあれば、すらすら話せる方もいるでしょう。一定の質問にはすぐに答えられても、それ以外の質問やコメントには反応しない又はできないような人もいます。通常の会話はできても、会話に含まれるニュアンスがわからなかったり、文字通り捉えられない冗談や皮肉は分かりづらい方もいます。もちろん言語の難しさは自閉症に限られた訳ではなく、自閉症の診断がなくても、同様の言語の難しさを抱える人もいます。  診断をされた時点で、「これまで思い描いて来たものとは違う将来になるかもしれない」という覚悟は必要だと思います。ただし、自閉症とは本当に様々な症状が見られるので、千差万別というか、中々「こうである」と言い難いのです。言語のレベルも様々、こだわりの強さも様々、人間関係の構築度合いも様々ということになります。  さらに言えば、「障害がある」=「何かができない」と考えることは、本人の可能性を否定してしまうことにもつながり、得策ではないかと思われます。パラリンピックに出られるような選手の方は、障害を持ちつつもスポーツを続けておられるかもしれません。両足をなくした方は、もう足を持つことができません。しかし「もう歩けるようにはならない 」「スポーツができない」ということは、必ずしもないのです。「自閉症である」ということは、同じことを何度も繰り返し言うかもしれないし、強いこだわりがあるかもしれません。うまく自分のことが表現出来ないかもしれません。しかしこれは、「将来仕

スクープ:褒めて育てる

 メリークリスマス!!今年も皆様が大切な人と一緒に楽しいクリスマス・年始年末をお過ごしできますことを、お祈り申し上げます! いつも読んで下さっている方、ありがとうございます!  先日清洲城に行って来ました。清須会議で最近少しだけ脚光を浴びている清須市ですが、平成元年に立てられた清洲城では清須会議で使われた衣装なんかも展示されてました。(ちなみに清須市と清洲城、この漢字で合ってます。なぜ違うのかは私には分かりません。)私の教室も清須市にあるので、地元民として一応チェックしておきました。お城前の公衆便所に入ると、小便器のところに面白いサインをみつけました。男性用の小便器に入る芳香ボールってあるじゃないですか?小便器の中に転がしてあって、小便が当たると消臭芳香の機能がある、あれです。それが入っていたんですが、「芳香ボールを盗まない」というサインが貼ってありました。ええ?と思いません?芳香ボールって無数の人の小便がかかっているやつですよ?誰がそれをつまんで盗んで行くというのか?でも、サインが貼ってあるとうことは、誰かがきっと盗んだんですよね・・・。大体芳香ボールって男性用小便器にしか使えないし、ほとんどの家庭では使えないはず。いい臭いを得たいがために、誰かがそれに手を伸ばして持って行ったとでも言うのであろうか?謎です。  こういった「禁止」「ダメ」というサインは、よく見かけますよね。しかしABAベースの教育を行う際は、そういった禁止の指示はなるべく必要最小限にしたいものなんです。間違った行動が起こってから「ダメ!」というよりも、ではどんな行動が望ましいのか考え、褒めたりご褒美を与えたりしてそれを増やすことで間違った行動を減らします。間違った行動だけ減らしても、代わりに何をすれば良いのか指定しない限り、結局問題は解決されておらず、違った形の問題行動になって帰ってくるからです。最近のトイレでは、「きれいにお使い頂き、ありがとうございます。」というサインも現れ始めました。「汚しちゃダメ!」よりは良いかと思います。私たちが子どもとのやり取りする際、気づけば「ダメ!」と叱ってしまいがちですよね。コンサルでも、「こんな問題行動があるので、どうしたら良いでしょうか?」という質問の方が、「こんなことが出来ないので、どう教えれば良いでしょうか?」という質問と同じく多く見かけます。本当は良

小さな問題解決

 先日牛丼が食べたくなりました。松屋さんと吉野家さんがあって、松屋さんの方に行ったんですけど、何故かドアが開かないんです。ガラスの向こうにお客さんが牛丼食べている様子が見えるけれど、何故か自動ドアが開かなくて私は入れない。最近の自動ドアって、ちょっと触ったりしないと開かないようになっているのってあるじゃないですか?そういうのだと思ってボタンを探してガラスを触っていると、なんだか一人でパントマイムしているようで、非常に恥ずかしい。もしかしてドアが違うのかと思って、立ち去るふりをして周りを歩いて行っても、他にはドアが見つからない。恥ずかしくなって結局吉野家さんにしました。もちろん、「ここに入りたかったわけじゃないんだ」、というような演技で立ち去りましたけど。吉野家さんは良いですよ。中に入れる。牛丼屋さんに入れないのって、もしかして私だけでしょうか・・・。  人生ってこういうことですよね。毎日色んな問題がある(私だけかも)。でも、療育では私はわざと「もしかしたらこんな言葉はしらないかも」という言葉を使ってみます。知らないことを言われてどうするのか?それが普通の生活に近いと思います。人の言っていることがすべて分かる子どもっていないじゃないですか?あまりに言葉を子どもに合わせてしまうと、学校や他の場面でそういう普通の問題に打ち当たってパニクったり、問題行動を起こしたりしかねません。(療育の最初の場面では子どもが分かるように言葉を選択するので注意!その後徐々に切り替えていきます。)  それから「消去」のところで少し話しましたが、子どもが問題にぶつかった時にも、「わからないねえ。難しいねえ。」などと共感するようなことを言っても、答えをすぐに教えません。すぐに答えを教えてしまっては、「そういう場面に色々なことを試してみる」という大切な行動が学べません。外国に行った時を考えれば、相手に自分の言いたいことが言えないですよね。その時に、黙っていたら分からないじゃないですか?何か色々、間違っていても、ジェスチャーでも何かした方が、意思が伝わる可能性が高い。何もしなければ、問題行動を起こしていれば、可能性はゼロです。私も松屋の牛丼は食べられなかったけれど、吉野家のは食べられた!それで良いじゃないですか。小さな問題解決。こういう小さな問題を解決出来る場面を一日何度もします。障害がある子ども

イヤイヤ期

 「イヤイヤ期」ってありますよね。英語ではちなみに"Terrible two(ひどい2歳)"なんて言いますが、こういう言い方があるということは、文化を超えて2−3歳という時期が色々と指示に従えない難しい時期であるようです。私の教室にも、朝私の顔を見ると「先生イヤイヤ」と言う子がいます。「おはよう」と挨拶すると、「おはよう、しない」と返します。でも、他の子どもに気を取られていると(無視していると)、わざわざ私の目の前に顔を出して「せんせい、おはよう」と言って来ます。ちょっと指示を与えると「イヤー!」と叫んだり、わざわざテーブルの上に登って「テーブル登る、しない」と自分で言ったりしています(叱られる言葉を先取りしている)。しかし、「イヤ」、「しない」と言いながらも、結局たくさん楽しんで帰って行くし、色々教えられているし、色々観察しているからか、こちらが教えようとしないことまで等色々と学んでもいます。「イヤ」と言いたい、言われたことをやりたくない、やってはいけないと言われたことをしてみたい、という時期なんでしょうね。私も無理に抑えつける様な教育は避けています。  イヤイヤ期はもちろん誰にでもあるということではなく、何の反抗もなくのんびり育つ子どももいます。ちなみに私の母親によると、幼児期の私は何の問題もなく楽に育ち、私の姉は反対に大変だったようです。そうかと思えば、私は40過ぎた今頃でも会うたびに「イヤイヤ」反抗し、万年イヤイヤ期に突入しています。うちの母親は「ああした方が良い」「こうした方が良い」と色々と忠告したいタイプなんですが、私は忠告されるのが嫌いなんですよ(勝手ということか)。うっとうしくなってイヤイヤ言っている私に、母親はいまだに「素直に聞きなさい!」って怒っていますが、言う方も言う方ですよね。40過ぎの男に何言ってんだか。まあ小さい頃楽だからと言ってそれが続くとは限らないということですね。  おっと話を戻すと、治療教育で難しいのは「イヤイヤ期」だからこんなに反抗するのか、自閉症などの発達障害から来る特有の問題行動なのか、なかなか区別がつきにくいことでしょう。2−3歳だからと放っておいて良い問題なのか、積極的に改善させようとした方が良いのか、難しい時もあるでしょう。基本は問題行動が学びの障害になっているか、そうでないか、こちらはそれに合

性格タイプと失敗しやすい問題1:「ほっとけない」タイプ

 お久しぶりです。何ヶ月かぶりのブログ再開です。  名古屋で仕事を面始めてから約1年になり、おかげさまで順調にお客様も増えてきました。なんだか突然忙しくなったような感じで「わたわた」してましたが、やっと気持ちが落ち着いて来ました。突然ですが、最近テレビなどでも紹介された「あべこべ体操」って知ってます?普段使わない様な筋肉の動かし方(体の部分をあべこべに動かす)をすることで、肩こりをほぐすんだそうです。私は結構「健康系」のもの好きなんですよ。テレビを見ながらやってみたのですが、あべこべにするって、本当に難しいですよね。テレビで見本を見ても体操の真似が中々できなくて、イライラする。新しい仕事を始めるって、そんな感じですかね。今まで使ってない筋肉を使うというか、今までやったことのない生活習慣のやり方で、実質上の「忙しさ」というよりも生活習慣の変化とか気持ちの切り替えに体がなかなかついて行っていなくて、必要以上にぐったりする印象です。加えてこの何ヶ月かで引っ越しもしたり、私的な人間関係でも色々あったりで、大変でした。まあブログネタも色々あったかな?またボチボチですが、これからもブログでお知らせしていきますね。よろしくお願いします。  ちなみに皆さん背中で両手を(片方を肩の上から、もう片方を肩の下から曲げて)合わせられます?テレビでは「あべこべ体操」をした人が、体操終わった後でこれまで触れなかったのに触れるようになった!っと言っていましたが、私は全然でした。どういうことだ?誰か効果があった人あったら教えて下さい。  今回は、私が臨床で観察して来た子ども達の性格のタイプと、その子ども達の陥り易い問題等を取り上げます。第1弾は、「ほっとけないタイプ」または「省エネタイプ」と読んでいます。 これは、自分のエネルギー(労力)をなるべく使わないで生活しようとするタイプ。困ったことがあっても、できるだけ自分から積極的に行動したりせずに、「困ったなあ」と困ったまま待つことが多く、そのため周りの人が「ほっとけない」とつい思って手伝ってしまうため、周囲から色々とやって貰うことが上手です。こういった人は、世の中に必要ですよね。人の世話を見たい人はいくらでもいますし、逆に体を動かして精力的に行動する人よりも「もてる」タイプかもしれません。自閉症に関わらずよくある性格のタイプだと思いますが、発

ABAの誤解:極端なもの

 久しぶりの投稿になります。みなさま元気でやっていらっしゃいますか?ここ最近やっと暑さが落ち着いてきましたね。昨日と一昨日はクーラーなしで寝てしまいました。  先日「カプセルホテル」に泊まりました。いや、面白いですね。日本ならではですね。サウナや温泉(人口ものだけれど)がついていて、24時間いつでも入れる。ただでマッサージチェアーもある(大好き)。朝食にインスタントコーヒーとバターロールまでついてきた。面倒くさいのはお風呂やロッカー、ベッドなどがそれぞれ別の階にあり、エレベーターが1つしかなく、階段も非常時以外は使えないこと。ベッドはそれほど快適ではなく、近くの人のいびきや目覚ましの音も聞こえる、ということかな。また泊まりたい?微妙なところだね。面白いのは確かだ。便利なのも確かだ。4千円弱で泊まれる安さも魅力だ。でも、人のいびきを聞きながら眠れます?  最近感じるのですが、ABAが良いものか悪いものか、「微妙」というような印象を持たれている方が多いのです。ABAは最近結構有名になって来ているらしく、私の所に来る方もABA知らなかったという人はまずいませんね。「必要だ」と言われて来る方もいます。良い情報が色々と出回っているというのはやはり嬉しいですね。ただ嬉しい反面、妙な誤解というか偏見というようなものも出来てしまっているようですね。テレビで紹介されることも増えたからでしょうかね。テレビではやはりインパクトが強いように作らないと面白くない、視聴率が伸びないということもあって、一部が誇張されて紹介されてしまう等、誤解が生じることもままあることだと思います。よく言われるのが、「ABAは無理にでもやらせる(泣かせても無視する)」 というような漠然とした印象です。確かに、泣いていても指示したことをやらせるということはありますが、それ一本やりでは明らかに失敗するでしょう。私もできれば泣かせないようにやるように工夫もしますし、無理強いするのがABAだということは大変な勘違いと思います。逆にそういう「ABA(と称するもの)」を見たら、逃げて下さい。また、時折言われるのも「先生は強化子(お菓子)は使わないんですか?」 お菓子を使って子どもを動機づけるというのがABAということでもないんです。できれば使わない方が良いでしょう?私は使うこともありますし、使わないこともあります。  

基軸となる社交性のスキル:Perspective Taking 相手を見て自分の行動を変える

 昨日仕事で九州に行ってきました。8月10日は帰省ラッシュのピークらしいですね。新幹線の指定席の予約?3日前に予約に行ったら、やっぱりすでに始発から一日全部満席でしたね。名古屋駅ではやっぱり混雑していて、自由席の所はすでの長蛇の列。「メーテレ」と書かれたテレビカメラを持ったテレビ局の人たちも帰省ラッシュの撮影しています。列の短い所ないかな。フラフラ歩いていると、1号車の一番先の乗り場は誰も並んでいません。忘れられていたんですね。一番先頭に並べました。これなら座れるかも。私の後ろにはすぐに人が並び始めました。ラッキー!笑顔満々で並んでいたら、子どもが走って来て列の後ろにつきました。しかし驚いたのは、その後からやって来た親が、列に並んだ子どもを叱って列の最前列(私の横)に並ばせたのです。しかし手話で話しているため、その親子の話の内容はイマイチ良く分からないので、横入りしようとしているのかただ次の列車を待とうとしているのか、よくわからない。「え?」っと思ったままぼんやりしていると、新幹線が到着すると(横入りしたとは知らない)乗務員が子どもを優しく私の前に入れてしまい、結局その家族は横入りしたために一番に空いた席に座れて、私以降の人は座れませんでした。どういうことだ?子どもが列に並ぶという適切な行動をしていたのに、常識のない親がそれをわざわざ自分の都合の良いように(社会の常識を無視するように)教えてしまっている。それを注意すれば良いのに、黙って見てしまっている私も私ですよね。意気地がない。やはり手話で話している人に話が通じないんじゃないかみたいな(というか、手話のできない私は相手の言っていることはわからない)戸惑いはありますが、でも、常識のないのは誰かが注意しなければいけない・・・え?私が注意する?え・・・私はちょっと・・・(←全くだらしがない)。結局岡山ぐらいから座れましたね。座っているお客さんから、「私次降りるからねえ。」なんて言ってもらったりして、まあ世の中良い人もいれば、そうでない人もいるということですね。  まあ社交性のスキルというのは、本当に難しい。はっきり言って世の中には私も含めて社交性のスキルのない人があふれている。この家族なんか、周りの人の視線なんか完全に無視しているということですよね。最近テレビでは「空気読む」とか、周りの人のちょっとした表情を読んで対

ABA:フリーオペラントの理論

 今週末は「日本行動分析学会」年次大会に出席してきました。前回も報告した通り、まだ「ぎっくり腰」になって長くないので、無理しない程度に参加しました。やはり長いこと座っているのが辛いので、長時間の参加は避けましたが、色々と収穫もありましたね。シンポジウムでは「『罰なき社会』を再考する」で発表されていた方たちの中でも、特にドッグトレーナーの山本央子先生のキャラが個人的には面白かったですね。話し出したら止まらないタイプというか、時間が過ぎてもガンガン喋りまくってましたね。話題が話題だけに熱くなるのも当然ですけどね。しかし首輪やショックを使った罰ベースのトレーニングが日本では頻繁に使われているとは、全然知りませんでした。ペットを人間以上に溺愛している人が多い世の中、ちょっと驚きですよね。罰を使わずに有効なトレーニングを行えるという情報自体がもっと広まらなければいけませんね。でもまあ子どもの教育現場でも同じと言えば同じですかね。残念ながら、なかなか体罰がなくならない。杉山尚子先生がスキナーの過去の発表等を踏まえて、理論的な分析・説明も発表なさいましたが、「罰という行動をなくすにはどうするのか」、ということを社会の行動として分析・理解し、変えて行こうとする試みも大切だと思います。  さて理論も大切だなあと思った時点で、ここ何回かディスクリートトライアル、NET(自然環境でのトレーニング)、自発トレーニングの話をしてきましたが、今回はちょっと掘り下げて理論について話します。これまでディスクリートトライアルは、「指示に従う」行動を教えることに有効であり、色々な行動を教えるプログラムが、教える側のタイミングで調節出来る(学側の行動を待たなくても良い)という点で非常に使い易い方法だということを話しました。研究の流れとしてそれに反して出てきたのが、PRTなどを含むNET(自然環境で行うトレーニング)ということも言いました。しかし、行動分析の理論的に言えば反対は「フリーオペラント」と言います。実はPRTやNETという新しい名前を使わなくても、ディスクリートとは反対になる理論的な方法があるので、これを少し紹介します。なぜここで理論を紹介するかと言うと、私たちは科学として色々な行動の理解をして、今後も色々な療育に有効な方法を開発し、評価していくわけです。理論という大きな背骨・木で言えば幹に当

療育で孤独に戦う親

 突然ですが、ぎっくり腰になってしまいました。それも何となく徐々に痛くなったので、きっかけというようなきっかけもなく、原因が指定しづらい。まあ生徒を持ち上げてクルクルして」回したりしていたからかなあ。合気道や水泳もするから、運動不足ではないはず。変わったハキングシューズもはいてみたから、そのせいかも。いずれにせよ腰に負担をかけると痛い。くしゃみをしても痛い。次第に何もしていなくても重くてつらくなってきたので、ヤバいかなと思って接骨院に行って治療をしてもらいました。  氷で冷やした後に、電気の治療をしてもらっていたら急激な痛みが襲って来て、人前なのに「痛、痛、痛!」と言っていたら後で院長先生が針を打ちにきてくれましたね。別に治療をしてもらったから痛くなったのではないのだろうけれど、ちょっと怖くなりますよね。治療後は何もしていなくてもかなり痛くなり、朝方までほぼ眠れませんでした。次の日は何もしていないのに、痛み止めを飲んでいるのに、それでも痛い。何もできない。ということで滅多に休まないお仕事もお休みして療養しました。生徒の皆さん、すみません。でも痛みは人に伝えづらいですね。今日はやっと痛み止めなしでも良くなってきましてブログなんか書いていますがが、それでも長い事椅子に座っていると痛いので、寝ている事が多いですね。寝てるばかりで何も出来ないのは本当に退屈です。動いてるときは、「ああ、疲れた、一日寝ていたい。」と思っているのに。   でも、ぎっくり腰くらいのメジャーな障害になると、別に大した治療法がある訳ではないのだけれど、色んな情報がすぐにインターネットで手に入りますね。しかも、どれを見ても大体同じ事が書いてあるので、情報を疑う余地もあまりない。接骨院もすぐに行きたい所がみつかるし、他の人からも理解が得られる。これはありがたい。ここ最近やっとメジャーになってきた自閉症とは違いますね。本当にインターネットでも情報が掴みづらいと思ったからこそ、私もウェブやこのブログを作りました。出来るだけ科学的で、最新の情報を提供するようには心がけていますが、私の情報が的確であるか、自分の子どもに合うかどうか、結局の所は親が判断しなければなりません。だからこそ、誰に話しても理解を得られない、だから話せないという悩みは本当に辛いと思います。  お母さん方の話を聞くと、 「うちの両親はあま

ABA: 自発訓練(プロの秘密)

 突然暑くなりましたね。名古屋では38度とからしいですよね。私は名古屋を出てから20年くらい経って久しぶりの夏なのですが、20年前とは明らかに気候が違いますね。昔38度なんてなかったですから。この温度にこの湿度。不快極まりない。昼間は絶対にクーラーから出られませんね。でも夜も辛い。昨夜クーラーにタイマーをつけて寝てたんですが、当然ですがタイマーが切れると暑さで目覚めました。ちょっと窓を開けて寝ようと思って電気をつけて、窓を開けて、電気を切ってベッドまで戻った時点で、これだけの運動で汗だくになりました。それも全力疾走でもしてたんじゃないかと思うぐらいの汗です。結局またクーラーをつけて寝ました。夜の暑さを甘く見てましたね。テレビを見ていたら、原発の問題でコメンテーターが、「夏も打ち水をしたりすることで涼しくしてクーラーを控えめにしたり、電力の省エネしよう」なんて言ってましたが、日本に住んでいた事があるんだろうか、この人は。年寄りがクーラーを省エネして倒れたら責任取れるんだろうか。「がまんする」ということを当たり前のように人に期待するのはちょっとどうかと思います。私は我慢しません。人にも期待しません。  さて前回までディスクリートトライアル(DTT)と、自然環境でのトレーニング(NET)について話しましたが、今回私がやっている事についてちょっと紹介します。私は自発訓練と呼んでいます。ディスクリートトライアルをしていくと、子どもに「指示に従う」ということを上手く教えられます。ただし、子どもが自分から動機を持って自分で行動するという自発性は教えられません。ディスクリートだと訓練は指示を出した時から始まるので、当たり前と言えば当たり前ですよね。自発訓練は逆に、いつ何をするのか子どもが決定する状態を作るので、指示を出さない訳です。「ええ?」と思いませんか?子どもが正しい行動をするのを待っていては、教えづらい。結局子どもが何か悪い行動をしてから、「こうしなさい。」とプロンプトで矯正する感じになってしまいやすい。NETを唱える教科書等ではここの具体的な例がないので、どうしたら良いのか分からない。NETの一つであるマンドトレーニングなんかをすると、自発性をかなり教えられます。でも、通常のマンドトレーニングだけでは、「ちょうだい」とか、物や活動を要求することだけに終止してしまいがちです

ニュース

私からのニュースです。 1)10月18日(金)に愛知県稲沢市で公開講座行います。発達障がい児を持つ親の会「スモールステップ」さん主催で、ABAの基本と応用について、10時から12時までの2時間で参加費用は千円です。もう少ししたら詳しい内容をwww.kojitakeshima.comの方でお知らせします。 2)福岡方面まで足を伸ばして、月1回出張相談おこないます。新幹線沿線の方で興味のある方はkoji.takeshima@yahoo.comまでご連絡ください。

ABA:自然環境で行われるトレーニング(NET)

 昨日名古屋では一人というマスターソムリエのいるお店に行ってきました。彼一人でシェフ、給仕、ソムリエのすべてをやってしまう(彼だけで経営)ので、すごく小さくて、しかし良心的で(安くはないが、意外に高価なワインではない)、隠れ家的な小さなお店ですね。私はカリフォルニアのワインは結構飲んでいましたが、フランスのワインはあまり知らないので色々勉強させてもらいました。私の所もセラピー、親教育から、プログラムの作成、教材の準備、おやつの用意、掃除まですべて私一人でやっているので、全然違う商売なのですが何となく親しみを感じられます。ということで今回、ワインを飲みながら書いているので、少しいらないことを無意味に話しても勘弁して頂きたい・・・相変わらずいい訳ばかりしているという気もする。  前回ディスクリートトライアルについて書きました。これを批判する感じで生まれたのが自然環境でのトレーニング(Natural Environmental Training: NET)で、今回はこれについて話します。基本的にディスクリートのようにテーブルに子どもを座らせて勉強させるような形態の療育ではなく、自然な生活の流れや遊びの中で色々なスキルを教えていくものです。インシデンタルティーチング(Incidental Teaching)とか、ミリューティーチング(Milieu Teaching)とか、PRTとか、VB(Verbal Behavior:言語行動)のマンドトレーニングとか、ABAの中の色々な方法を含んだ療育方法への総称ということです。今あげたそれぞれの療育法がABAの中で研究されて、効果をあげている。どっかで言いませんでしたっけ?ABAって行動の原理を応用させて人間の生活を改善するものすべてが含まれるので、それに基づいて色々な療育方法が生まれるんです。もちろん、今挙げた療育法だけではありません。ABAは一つの療育方法と考えておられる方が多いのですが、それは間違いですので、気をつけて下さい。  中でも一番良く知られている例はPRT(Pivotal Response Training、ピー、アール、ティーと呼ばれる)というものですが、アメリカでは有名なテレビ番組でも紹介されました。「スーパーナニー」ってご存知です?「ナニー」と言うのは子どもの面倒を見る人のことを言うのですが、一般の家庭で近所

ABA:ディスクリートトライアル

 私が教室に使っている愛知県清須市の西枇杷島町というのは、昔ながらの建物を残している所なんです。私の教室も「古民家」を少しだけ改造したものと何度もどこかに書いたような気もしますが、古いといっても築30−40年というレベルではなく、実際にどれくらいの年数が経っているのかは知りませんが、少なくともその倍は、もしかしたら3倍経っているような、アンティークというか骨董品と呼べるまさに「古い」建物なんです。使えば使う程「味」がにじみ出て来て、愛着が湧いて来ます。教室の奥の方は、はっきり言って半壊状態なので使えないのですが、台所とかお風呂とかがあって、さらに奥は外に出て壊れかけた「離れ」もあるんです。昔の人は細く長い敷地に住んでいたんですね。そして実は2階もあるんです。これまでは大家さんの物が詰まっていたのですが、「ちょっと泊まったりしたい」などとわがままなを言ってみると、「使って良いよん。」(大家さんはこんなおバカな返事はしませんでしたが)ということなので、使えるように掃除させていただきました。もう何十年も使ってなかったんでしょうね。埃がすごかったのですが、一日で見違える程きれいになりました。窓枠とかが木枠なんです。雨戸も木でできてる。もちろん畳です。円卓がある。三味線がある。ダイヤル式(プッシュじゃなく回すやつ)の電話がある。小槌を持った恵比寿さん(小槌を持った神様って、大黒天だっけ?)がいる。ステキ。窓の低さが良いんですよ。畳に正座すると、ちょうど腰よりちょっと上くらいの高さに窓があるので外が楽に眺められる。風がよく通って気持ちいい。何となく外を眺めながら小説家にでもになった気持ちになる・・・(実際にはあまりにゆったりとリラックスするために筆ははかどらないため、妄想のみ)。   さて本題に入って、「伝統的」と言えば、ABAのディスクリートトライアルもかなり広まって来て、こういわれても良いぐらいになって来たのではないでしょうか?ちなみに翻訳すると「不連続試行」なんて言われますが、日本語にして意味が分かり易くなっていないと思うので私は使いません。基本は1、2、3です。1、短く明確な指示を与える(行動のきっかけがある)。2、子どもがそれに従う(子どもの行動がある)。3、褒める(子どもにとって良い事がある)(子どもの行動を強化するような結果がある)。これを実際に何百回、何千回も

ABA消去:パート2(問題解決)

 実はもう2月程前になりますが、うちのひまわり教室がネズミの被害にあったことがあるんです。「古民家を使っている」という事実を甘く見ていたんでしょうね。よく考えれば、色々ネズミの通れる穴みたいなものもあるでしょう。油断していました。というか、ゴキブリはあってもネズミが家に入って来るというような経験がないので、ちょっとと言うか、かなりショックでした。子どものおやつに出したり、強化子に使ったりするようなお菓子が用意してあったんです。小さな個別包装になっているようなやつです。半分開けたダンボール箱の中に入れて、棚の一番高い所に置いておいたんです。週末明けで教室に帰ってお菓子の箱を見ると、ダンボール箱のなかにいっぱい小動物の足跡、抜け毛、排泄物が落ちていていました。今想像しただけでもぞっとしますね。よく見るとお菓子の個別包装の袋に丸く穴があいて、その中からお菓子を出して食べていたようなんです。まさかプラスチック包装やアルミニウムっぽい包装も食い破るなんて、その時点で私の想像をはるかに超えています。「こ、これは・・・。ネズミってもしかして病気をもたらす?ネズミが触った所を消毒しないと、教室の子どもが二次感染するかも?」それから3時間くらいかけて掃除、消毒、掃除の繰り返しでしたね。こういう時一人の商売って、嫌ですね。誰にも話せずに黙々と掃除なんて、「くやしー。」としか言いようがない。  少ししてさらに思いついたのが、「も、もしかして・・・。またやって来るかもしれない?」ホームセンターへダッシュしましたね。ネズミ駆除関係商品コーナー直行です。ネズミの嫌いな臭いのするものや、ねずみ取りのマットも。でも、これはゴキブリホイホイのでかいバージョンみたいな粘着版です。「でもこれって、ネズミが捕れたらどうするの(見たくねー)?しかも、ネズミが一匹捕れたからと言って、一匹見たら何十匹もいるんじゃないの(それって、ゴキブリ?恐怖の大量ネズミの想像図)?」そう考えたら、駆除するよりも食べ物をなくす方法にしました。取りあえず食べられそうなものは、固いタッパーウェア系の入れ物に入れる。食べ物とそのにおいさえしなければ、ネズミが来る意味がない。来ても長居しない。結局の所それから何ヶ月かネズミは帰って来ていません。でも月曜日になって教室を見ると、ちょっと怖くなります。時々古民家の土壁から落ちた土を床に見

療育家として残したいもの

 実は先日私の10年来の友人が亡くなりました。ほぼ同年代でしたので、初めに知らせを聞いたときはそんな事があるとは全然想像さえしていなかったので、文字通り「は?」と聞き返してしまいました。その後少し慌てました。  友人はまだABAなどという言葉は知られておらず、自閉症への教育なんてあまり話されていなかった10年以上も前から療育の仕事を立ち上げられた方で、立ち上げに際して私がいたウェスタンミシガン大学へしばらく来て療育を見てもらったり、アメリカで一緒にワークショップに参加して私が通訳したりしました。「大きな会社にするつもりはないが、療育する側が生活を成り立たせるだけのしっかりとした収入のある、質の高い信頼のある会社に仕上げたい。」と言っていたのを覚えています。日本に帰って来て会いに行くたびに、会社が徐々にうまい方向へいっているのが目に見えました。  通夜に行って友人のお母さんから初めて急性のがんで亡くなられた事を知りました。入院して10日という事です。あまりに事が早かったので、連絡する機会もなかったのでしょう。友人等の若い人の葬儀には初めて参加するので 、戸惑いました。親に相談して喪服や数珠等は用意できたけれど、すっかりハンカチを忘れていて、涙をうまく拭えませんでした。通夜では療育を受けた自閉症の子ども達も大きくなっていて、「生き返って来てね。」などと話しかけていました。帰りの電車で、一緒に葬儀に参加したであろう親御さん達の話が聞くともなく耳に入ってきました。「学校でのトラブルで本当に困って相談してみたんだけど、わざわざ学校にまで行ってくれたんだよ。先生と色々と一緒に話してくれて、一発で問題が解決したよ。あの人はカリスマ性もあったし。」本当に、生徒さん達やお母さん達の人生に大きな影響を与えていたのですね。こういった伝説は語り継がれていくでしょう。  帰りの新幹線で私と友人に対してビールを一本ずつ買いました(結局私が2本飲んだという事ですね)。最後にもう一回でも一緒に飲めたら・・・。仏壇に食べ物を添えるのは、こういうことなんだなあと思いました。自分のためにするんだなあ、と。人生いつ何があるか分からないですね。小さくても良いから、質の高い、信頼のある会社。お母さん達からその療育の成果が語り継がれるような仕事。実際ところは本当に一握りの生徒さんや親御さんを満足させられれ

考えるという言語行動

 毎年5月の終わりには、アメリカで行動分析学会があるんです。5月の終わりはどこで開催されても気持ちの良い季節ですね。今回は入国でいじめられました。「職業は?」と言われていつもこまります。「自閉症の子どもを教えています。」なんて言うんですけど、世の中には自閉症って知らない人もいますよね。 「では教員か?」と言われると教員免許持っていないのに教員だとは言えない。「サイコロジスト(心理士)か?」と言われると心理士の免許も取らなかったのでそうとも言えない。かと言ってBCBA(認定行動分析家)なんて言っても、自閉症療育の関係意外はまだ一般には知られていないので、一から説明する気にもなれない。にこやかに、「発達障害の子どもを教えています。」といっているのに、「職業を聞いてるんだ職業を!」「そこへ立て。」「お前は俺の質問をしっかり聞いていないんだ!」「そんな微笑みなんていらないんだ!」「お前がちゃんと答えないから、後で待っている人の時間を取るんだ!」なんて次から次へと言われました。お前がちゃんと聞いていないんじゃないか。明らかに自分の力関係を誇示したいタイプなんでしょうね。入国早々いきなりこれじゃあねえ。ああ、アメリカに帰って来たなあ。丁寧に扱ってもらえる日本が遠い・・・。  今年はポスター発表しました。今回はアメリカにいた時にした、ちょっとした基礎実験を発表しました。私は臨床にいるので基礎実験なんてしたことないんですが、今回は人の言語行動についての興味を楽しんで追求してみました。私は人の言語行動って、見えない部分が多いと思うんです。つまり頭の中で考えるということです。私は一日中色々な事を考えていますし、そうすることで得になることが多い(何らかの強化がされている)から考えているんだと思います。思考というものも、一つの行動として捉えることができると思うんです。ただ、見えないからあまり研究されていない(笑)。行動主義というと、見える物に焦点を置くような印象があると思うんですが、見えないことを無視せず、むしろ積極的に分析する人たちをラディカルな行動分析家と言います。今回の学会でも、そういった見えない部分に目を当てた研究の発表がいくつかありました。  認知心理学の人なんかは、人の認知を行動の説明として利用します。例えば、自己認識が「私は太っている」だから、実際には痩せていても拒食をし

時間をかけて培うスキル

 しばらくぶりにブログ再開です。2週間以上ですね。アメリカであったABAの学会に参加していたのと、私事ですが心痛いことがありました。この事に関してはまた他の機会にブログで紹介させて頂きますね。これからは、またちょこちょこずつ情報を紹介して行きますので、よろしくお願いします。  昨日奥田健次先生がまた朝のテレビで紹介されていましたね。今回は15分くらいかけて、しっかりと奥田先生のことを追われていて良かったと思います。「ABAって一体なんなんでしょう?」というような問いかけと回答がされていて、本当にこういった機会で徐々にABAのことが紹介されるようになると嬉しいです。ABAは自閉症関係以外一般的な知名度はまだあまりないですから、奥田先生のような先生の出られるテレビをきっかけに、一般的な興味が増えると良いなあ。ちなみに奥田先生とはアメリカのABAの学会では飲み会の席でご一緒させて頂きました。実はそこで昨日のテレビ放映についてを教えて頂いたんです。気がついたら以前一緒にテレビに出ておられた杉山尚子先生も一緒に席にいて、有名どころに囲まれておりました。特に杉山先生とは毎年学会でお世話になっていますが、お二人とも別にテレビに出られたからと言って変わりなく、「だからどうなんだ?」という感じでしたかね。でも何となくテレビって、ウキウキしません?ちょびっとウキウキ(ちょびウキ?)でテンション上がったのか、調子に乗ってお二人の証拠写真まで撮ってしまい、よく考えれば迷惑でしたね・・・。  テレビではどうしても華やかなことやドラマチックなことがが取り上げられる傾向があるので、何となくすべての問題が速やかに解決されてしまうような印象になってしまいますよね。テレビで紹介されていたお母さんは、「トイレトレーニングの相談をして他の専門家の方は様子を見ましょうというような事ばかり言われるのに、奥田先生は具体的なアドバイスを言ってくれて、そのアドバイスに従ったらすぐに問題が解決した。こんな事を言ってくれた専門家の方は一人もいなかった。」ということを言っていました。まさにドラマチックな解決です。「問題がある」→「専門家に相談する」→「専門家がアドバイスする」→「アドバイスに従う」→「問題が解決する」というようなイメージでしょうか。まあ基本的にはそういうことなのかもしれません。私もアドバイスをして、同

基軸となる行動2:独り言という言語行動

 先日愛知県の稲沢市で引きこもり・・・あれ?・・・立てこもりか、の事件がありましたよね。うちの姉の住んでいるところの隣だったみたいで、警察が包囲していて家に帰れないってメールがありました。怖いですね。最近本当に近所でも色んな事件が起こる。いつ巻き込まれるかわからない。おかげで姉は漫画喫茶で義兄と一緒に暇つぶし。結構楽しんでたみたいね。容疑者が掴まった時は、「根性無しが!明日会社休めんだろう!」ってメールが来てました。そうか、会社休む所まで予定されてたんだ・・・。  最近はメールなどで簡単に自分の目の前で起こっている事、経験した事を人と共有できます。Twitterなんかは「つぶやき」なんて訳されているけれど、本当に独り言を人に聞いてもらうような感じで、目の前に起こった事や頭に思い浮かんだ事をそのまま言葉にして、インターネットで人と共有できます。インターネットはさておき、この「つびやき」もしくは「独り言」をすると言う行動も、人間が生活して行く上で重要な行動であると思います。独り言ってしない人いませんよね。しかも、独り言を使って自分の行動をコントロールしていることが多いと思います。独り言が完全に無言だったりすると、生活に支障が出て来るでしょう。例えば、電話番号を教えてもらったら、 「080、33の・・・」というように、頭の中で(もしくは声に出して)紙に書いたり携帯に入力したりするまで繰り返すことで、番号を「忘れない」ようにします。例えば路上に駐車する時に駐車禁止のサインが出てたら、「あ、駐車禁止だ」と頭の中でつぶやいてから、回避したりすることもあると思います。前回の「Executive Functioning」でも説明しましたが、こういう人の生活と切っても切れない大切な行動を、基軸となる行動と言います。独り言自体が他の色々な行動の基礎になっていると思われます。  ABA行動分析で言えば、スキナーの言語行動ですでに語られていることです。スキナーは「聞き手」「話し手」というような分け方をしますが、自分自身が「話し手」となり、それと同時に「聞き手」ともなるのです。人から与えられた指示を繰り返すことで従い易くなったり、状況をナレーションすることでその状況に対して反応しやすくなったりする効果があります。しかし実際の所ABA関係ではあまり熱心に研究等されていない行動です。独り言と

基軸となる行動を教える:Executive Functioning

 また東京に行ってきました。今回のメインの目的は東京にあるABA療育の会社へのスーパビジョン兼コンサルテーションの提供です。ABAで療育を頑張っているという会社があるというだけでも私的にはかなり嬉しいんですが、さらに私のような所にも相談に呼んでくださって、本当にありがたいです。他にもABAの大学の先生と面会していただく機会を作って頂いたり、アメリカ時代からの友人と夢について語り合ったり、色々収穫の多い旅でした。   懲りずに何度も上京していますが、 方向音痴には東京内での移動が大変なんです 。 ビジネスに慣れている方は、新しい場所も結構スムーズに移動出来るんでしょうか?私は昔から待ち合わせとかダメなんですよ。皆で待ち合わせをして私だけ 全然勘違いした所に行ってたりして、皆と 会えずに迷惑をかけた事もあります。そう言えば、この間東京で友人のカナコさんと一緒に電車乗った時は、つい話し込んで駅を乗り越しました。(一緒に乗り過ごしたカナコさんも相当やばいですね。)誰かに「ほら、次でしょ」って言ってもらわないと(専門用語ではプロンプトという)、降りるべき駅でおりられなかったりします。よく 細かい所で失敗している。今回の上京で5回人と待ち合わせだったり、直接出向いたりしたんですが、よくよく考えてみればスムーズに行けた場所は1つくらいですね。 道順をすっごい丁寧に書いてもらってあっても、なぜか迷う。うーん。 最近は車のナビと同様、歩きでもスマートフォンを使って地図で示してくれますよね。やっぱり時代はナビだよ、ナビ。それでもやっぱり迷ったりして・・・。   ナビを使わない場合、新しい場所に行く時には色々と計画というか道順を調べて、それに従って行くじゃないですか。だいたい頭の中で「このホームを降りて、1番線に向かって、快速の時刻を調べて」とか色々な計画を細かく立ててから(もしくは立てながら)歩い行って、その計画を実行して行く。こういうのって、Executive Functionなんて言います。日本語では何て言うんでしょう?実行機能?まあ名前はどうであれ、頭の中で行動の順序を決めてそれを実行することです。レシピ本を使って新しい料理を作る時とかも、ピーマンを出して、野菜を先に切ってから肉を切ってとか、ある程度の順序立てを自分で組み立てて実行するので、同じ事です。  自閉症の

受け身から自発へ

 合気道を始めてから2ヶ月くらい経ちました。完全に初心者で、しかもおじさんになってから始める人もあまり多くないでしょう。まだ受け身とかもあまりうまくできません。前受け身ってわかりますかね、前方回転するやつです。でんぐり返し最近した事ある人います?ああゆう感じなんですが、でも微妙にちょっと違う(らしい)。と言うか、回った時点で自分の体がどうなっているのかまで、わからなくない?最初はやり過ぎて(と言っても20回くらいかな)くらくらして、顔色悪くなりましたよ。フィギュアスケートの人が回る時見る方向を決めておくって言うじゃないですか。そういう感じで、回転してもすぐに(投げられた)相手に視点を集中させることで、目が回ることを防げるらしい。私には無理かな。後ろ受け身ってのもあって、後ろに倒れた後に回転しちゃったりもできるのですが、そっちはさらに難しい。何度やっても普通の後ろのでんぐり返しみたいになって、それではダメらしい。  最近やっとちょっとだけ「投げ稽古」というのをやらしてもらえるようになりました。(こういう名前がついているかどうかは定かではない。)先生に、「投げて下さい」ってお願いして、何度も何度も投げてもらうんです。有段者がやると、受け身の人の体がきれいに空を舞う感じで、空中でくるりと回転して「バーン」と畳に投げつけられている。美しすぎる。私がやる場合、投げる先生の方も「こいつ本当に投げたら怪我をする」というのが分かってるから、かなり慎重にやってくれるんですよ。ですから見た目には、ただ「誘導者付きでんぐり返し」の練習をしている感じ。それでも何となく武道をやっている実感ができて、投げられるのが段々快感になってくるんですよ。「も、もっと投げて下さい・・・」とまでは言っていないが、ちょっとMな感じ。でも先輩方と話をしてると、皆投げられるの好きなんですよ。あれだけ美しく舞えれば違うでしょう。それは投げられたいでしょう。わかる、わかる。昨日も自分からお願いして投げられて、ちょっと肩が痛い。というのはやはり受け身が上手く取れていないせい。  受け身と言えば、自閉症の子は自分から能動的に人との関わりを始めるというのが難しい。合気道の「受け身」とは違う意味ですね。最近読者から「むっちゃ強引に自閉症につなげる」と言われるが・・・ま、いっか。自閉症の子のは基本的に受け身に人から関わって

標的行動を選ぶ

 この間名古屋地方の治療教育の方達と飲み会をしました。いるんですねえ、名古屋にも。治療教育の専門家が。しかもABAやってる人もいるんです。「頑張ってくださーい」、とエールを送りたくなってしまう(「お前が頑張れよ」こうじ心の声)。せっかく地元の人たちが集まっているので、今度から一緒に(できれば定期的に)勉強会を開く事にしました。しかしこれがこの結論に達するまで時間がかかったんですよ。皆なんとなく、「これから定例会のような物を開きたいな」という気持ちはどこかであったんでしょうけれど、でまあ初めて会うような人ばかりですから、何となく口に出しにくかったんでしょうね。結局そういう話になるまでに、夜中の1時半までかかりましたよ。飲み会も最後までいなきゃダメな時もありますね。さすがに深夜を過ぎるとみんな頭働いてなくて、「勉強会何する?」「さあ・・・。」「じゃあ場所だけでも決めて・・・。」というような生産性の低い会話になっていました。まあ東京だけではなく、地方でも色んな活動(飲みじゃなくって、定例会の方ね。まあ飲みでも良いけど。)が活発になってくると日本も面白いですね。将来は色々な地方の人を呼べるような大きな活動も計画出来るようになると良いですね。  話の中で「やっぱり標的行動を選ぶのが一番大変だ」という事が出ました。標的行動とは、私はターゲットと言いますが、焦点を当てて変えたい行動です。行動分析とかABAは問題がある場合、どんな行動を増やしたり減らしたりすれば、その人(子ども大人でも、ペットでも良い)の持つ問題が解決される方向につながるのか考えます。ちなみに一般の心理では行動を改善させるために、その背景にあるトラウマや認知などの心の問題を解決しようとします。いずれにせよ、問題の中核となること(行動でも心的問題でも)を特定して行くということは時間と労力のかかるものなんです。  比較的単純な例でいくと(治療が簡単ということではなくて、分析が比較的単純という意味)、場面緘黙(かんもく)症って聞いた事あります?ある場面(家庭など)では喋れる子どもが、ある場面(学校等)では一言も喋れないなどです。当然喋れないことから、色々問題が出てきます。いじめられることもあるかもしれません。それでも喋れないんです。だから問題です。これに認知行動療法を使えば、認知の仕方を変えようとします。例えば、十分

予測のつきやすい生活に変える

 今朝早くから大地震の警報がありましたね。日本に帰って来て携帯があんな音を立てたのは初めてで、寝ている所をたたき起こされた私も「あれ?アメリカとのミーティング忘れていた?でも携帯からの着信音の種類が電話やFaceTime、アラームとも違うし・・・」と、なんだか分からないなりにも尋常でない着信音にちょっとビビりました。でも「大地震だから注意」と言われても、何も出来ないですよね。「えっ?地震?」ってぼんやり頭で思いながら何もすることが思いつかない。一応テレビだけつけてみました。淡路島で最高震度になっていて、前回の阪神淡路島の地震を経験した人はさぞかし怖かったでしょう。私は大地震を経験していないのでこんなにぼんやりしていられますが、過去に経験された人はその時の気持ちを鮮明の思い出したのではないでしょうか。地震ってこう考えると本当に予測がつきづらいだけあって、怖いですよね。台風などはテレビ等で徐々に発達する様子がわかるけれど、地震だけはいつ起こるかわからない。今回のように寝ている時に来る場合もある。  自閉症の子どもたちって、見ていると本当に「いつ何が起こるかわからない。」生活をしていると思います。というのも、もちろん人によって違いはあるのですが、以前「当たり前の表示に気づく」で紹介したとおり、見なければ行けない所に目が向いていないために、起こりそうな事故を予測できない事が多い。例えばすぐ隣や後ろに人がいる状況だと、人がいると普通気づきますよね。自閉症の子は「人がいる」という認識がないままになってしまうのです。ですから直接ぶつからないにしても、突然その人の前を横切ってしまったり、リュックを背負ったまま振り返ってリュックで相手をこすったり、相手からすれば「おっとっと。何だこの子は。」となるのが当然です。子どもも突然注意されるので、びっくりしてしまう。でも、その人の存在すらに気づいていないのだから、本人からは予測しようがない。  言葉による説明も基本的に難しいことが多い。もちろん言葉が話せいない子は、これから何が起こるかが口で説明してあげられないため、常にその子にとっては将来何が起こるかわからない状態にあると思います。考えるだけでも不安な生活だ。ただしアスペルガーや高機能の自閉症の子で言葉が話せたとしても、口での説明だけではなかなか意味が汲み取れなかったりします。道順を教え

アメリカ自閉症教育における訴訟、倫理、システム改善

 日本のTPP交渉参加を受けて、その中でもISD条項といって参加する国の企業が(日本や他の参加国の)政府や自治体を訴訟できるようになる制度のことが話題に上がりました。今後TPPに参加するとなれば、海外の企業から日本国家が訴訟され、大変な債務を負うようなことになる可能性が懸念されています。アメリカでは訴訟が多いということを良く耳にするんじゃないでしょうか?訴訟をやりまくっている国なので、経験という意味ではアメリカが有利になるかもしれません。被害者の立場を自分で守るという姿勢自体は良いのですが、あまりに信じられないような訴訟の話も聞きますよね。アメリカの訴訟で一番信じられない話として聞いたのは、マクドナルドでホットコーヒーを注文して、お客さんが自分でそれをこぼして火傷して、マクドナルドを訴えたという話です。自分でホットコーヒー頼んでおいて、自分でこぼしたんだから、火傷するなんて当たり前じゃないの。訴えるか?しかもオカしいのは、これが訴えた側の勝訴に終わって、それからマクドナルドは「熱いので注意」とコーヒーのコップに書かなければいけなくなったとか。まったく常識を外れることにもお金と労力をかけていますが、基本は被害を受けたと思えば恥ずかしがらなくても訴えられるというのが鍵です。訴える側はそうする権利があるのです。しかもこの訴訟がいくつも行われることによって、アメリカでは自分たちの法律や社会のシステムまでも徐々に変えていく感もあります。  カリフォルニアで働いていた頃は、特に自閉症の教育において生徒の親が学校側を訴える訴訟や訴訟になりそうなケースをよく見かけました。 小さな市であるにも関わらず、その時だけで6件も平行して訴訟を抱えていました。カリフォルニアの学校区(市の職員)として働き始めて3ヶ月もしなかったんじゃない頃ですかね。私の入る前にあった出来事をめぐって学校側が自閉症児(生徒)の親から訴えられており、私も学校の仕事の一環として訴訟に巻き込まれました。  アメリカのABAで超有名な先生が親側の専門家の証人として呼ばれいて、私の運営するセンターにも(その生徒が過去に在学したということで)見学に来ました。親側の証人ですから、当然相手の弁護士から私のセンターの悪い所を見つけるように指示されて来たのでしょう。私も先生の本を持っており、できればこんな状況じゃない時に先生に会

Joint Attention: シグナルが強化子となる

 私の住んでいる名古屋の北区から出てちょっと車で行ったところになんですが、安くて新鮮なスーパーがあるんです。両親につれられて行ったのですが、値段が安いから「安物」を売っているかと思えば、客の数が多いので品物の回転が速いためか鮮度もかなり良い。良い商売してますね。ただ、客の数が多いんですよ。スーパーの大きさというか、中の通路の幅なんかは普通のスーパーかそれよりやや大きい程度なんですが、客が5倍いると考えてください。凄い人で満員電車状態。品物を見ていたら後ろからカートでおばさんに突っ込まれて、アキレス腱あたりにカートが強くあたって、「痛っ!」と声に出しました。しかし突っ込んで来たおばさん私の顔も見ずにいなくなりました。ええ?ぶつかられて声に出して痛がっても、視線すら合わせてもらえない?ありえないでしょ。周りを見わたしても皆自分の買い物の事に気を取られて、人がちょっとぶつかったぐらいでは見向きもしない。「い、いたい・・・。」ちょっとショックで私はその場で呆然と立ちすくんでしまいました。  ちょっと変わった事があった時って、何となく周りを見渡して他の人の承諾を探しませんか?そう言えば何十年も前の学生時代東京で電車に乗っていたら、隣の人(男性)が近くによって隣に座ったんです。隣じゃなくても場所があるのに。何故かと思ったら、突然耳をなめられたんです。は?と思いません?ちょっと起こった事が理解できなくて、耳を触ったら、ぬれていたんです。おえ。食事中だったらごめんなさい。でも、その人を見たら、何事も無かったように普通に前向いて、こちらの方も見ていない。今のは本当に起こったのだろうか?こういう突拍子もないことが起こった時も、周りに承諾を求めましたね。「皆見てた?今、この人、私の耳なめた?それとも何かの拍子に倒れて口がぶつかっただけ(それでよだれも垂れた・・・)?」と口に出しては言わなかったけれど、他の人も驚いて見ていないかを確認しました。でも、皆見ていなかったのか、しれーっとしてました。何となく状況が飲み込めなくて、電車を降りましたね。  視線合わせといえば、自閉症は一番できませんよね。視線を合わせる事自体が強化子になっていないから、その大事さが理解出来ない。こういうのって、Joint Attentionって英語では言われるんですけど、上の例をそのまま使えば、私がなめた人の方と傍

ABA: Momentum勢いに乗る

 先日おじいちゃんと花見に行ってきました。お昼に名古屋地方では有名なCoco一番のカレーを食べました。「ここに来るときはいつもこれ。」と言うので、皆でヒレカツカレーを頼みました。おじいちゃん夫婦を見たお店の人から、「ごはん多いですけれど、良いですか?」と聞かれましたが、「ええ。」と自信満々に答えていたので、そのまま普通どおりを注文しました。ヒレカツが2枚ものっていて、サラダまで頼んだ私はお店の人の言う通り、ごはん全部食べきれませんでしたが、おじいちゃんは完食してました。去年の11月に胃がんの手術で3分の2切除したばかりの88才とは思えない。しかし車に乗って花見に向かうと、突然喋らなくなりました。単純に食べ過ぎで苦しかったんですね。食い過ぎてしまったおじいちゃんは公園についても階段で座って、じっとしたまま動けなくなってしまいました。やはり3分の1残っていない胃で、あのカレーとかつの量は無理かな。一人でぽつんと座り込む姿に哀愁が漂う。反省タイム?ちょっと一人でそっとしておいてあげたんですが、突然いなくなっているのでどうしたのかと思えば、公衆便所で戻していたそうです。「すっきりした。」とゲンキ満々で戻ってきました。反省しただろうか?いや、してないな。これからもきっと食べ過ぎを続けるに違いない。  手術後私に車を譲り運転も諦めてしまっていたため、ちょくちょく外に連れて出かけるようにしているのですが、最初のうちは「いつでもええ。」「何にもいらん。」とかって遠慮して、私の誘いも結構断っていたんですよね。でも出かけ出したら結構連れて行ってもらうことが楽になったみたい。最近は勢いがついちゃって向こうから電話結構かかってくる。毎週のように出かけるのを楽しみにするようになっています。「毎週というのもつらいかも・・・」とも思うけれど、まあアメリカにいてずっと会ってなかったし、連れて行けるうちは連れて行こうかと考えています。   行動全般についても言えることですが、勢いにのるということが大切です。Behavioral Momentumっていう専門用語もあるくらいです。意外かもしれませんが、研究によってその効果も証明されている。どういうことかと言うと、起こりづらい行動があるとすれば、起こりやすい行動を何度か起こしてその合間合間に起こりづらい行動を挟むことにします。例えば、数字の課題が難し

社交スキルを周り全体が教える

 名古屋でアイズサポートという療育支援の会社が、3周年記念講演を行われるという事で、昨日土曜日に参加させて頂きました。実は地元の中日新聞でも取り上げられておりまして、名古屋でも色々療育支援の会社が育ってきていて、本当に嬉しい事です。親からしたらやっぱり療育も選択肢がないと。  金沢大学名誉教授の久野能弘先生も午後から発表されていました。失礼なこと言いますが、久野先生のインパクトに圧倒させられましたね。これが面白い、面白い。面白すぎてついお昼ご飯までついご一緒させて頂いたんです。毒舌って言うんですかね。痛烈な批判も大きな声で実名を出してガンガン言ってしまう。「あれ(ある有名なABAの療育家のサービス)やっとったら、子供がダメになるぞ。」とか、「臨床心理士のの○○知ってるか(たくさん本も執筆されている超有名な方です)?あれだけ嘘がつければそりゃ本も売れるわ。・・・あれの患者さん死んだよ。人を助けるより殺した方が多いんちゃうか。」とか、他にも次から次へと敵を作ってらっしゃる。さらに、「だから俺は不適応を起こしてクビになって・・・」なんて言われて、生徒さんから「(クビじゃなくて)退官されたんですって」と。やはりこういった他者批判から自己卑下のコメントまで含めて、久野先生ならではの会話のサービスというか、ボケと突っ込みのボケということでしょうかね。聞き手が突っ込むことが期待されている。この辺関西育ちじゃないと難しいですよね。私はぼんやりしている系なので、「そうじゃないですよ。」とか否定したり突っ込まなきゃ行けないところでも「はあ。そうですね。」なんて同意してしまったりして、聞き手スキルというか適切な社交スキルが育っていない。せっかくの会話を膨らますことができてない。「すみません。うなずく所じゃないですね。」と言うと、「日本ではうなずいとったら生きておれへんぞ。」と、ぴしゃり。やっぱり頭も切れる。先生は毎日ブログも書かれているようで、面白いので読んでみて下さい。  アイズサポートの代表の伊藤さんの講演も大変丁寧で良かったですよ。4年目に突入ということですが、一つ一つ丁寧にケースを考えておられるようで、真摯で真面目な姿勢が印象的でした。こういった療育の場が本当に増えると良いと思います。  ところで社交スキルと言えば、お客さんで高機能の方の就労支援、ジョブコーチをされている方

自閉傾向のある子「壊れたチーズバーガー」Good morning Americaより

 今朝アメリカの朝番組である「Good Morning America」で紹介されたストーリー(ヤフーのニュースを通して)を見ました。良い話なんで、ちょっと訳しておきますね。  ユタ州の7才の自閉傾向のある女の子、チーズバーガーが大好きなんです。ある日レストランでチーズバーガーを頼み、テーブルに運ばれて来たら、全然手を付けなかったそうです。フライドポテトだけ食べてました。お姉さんがどうして食べないの?と聞くと、「欲しくない。壊れてる。直したのが欲しいの。」と言ったようです。実はチーズバーガーは半分に切られていたんです。でも半分に切っちゃ行けないなんて特別な要求って、あまり普通には聞かないですよね。お姉さんが、そういう要求は理解してもらえないと思って、半分に切られていないものをもう一つ余分に注文したらしいです。でも、お店の人がその特別な要求をしっかり受け取ってくれて、「とんでもない。お金なんて取れませんよ。」って言って子どもに謝って優しく接してくれて、「直してくれた」らしいですよね。半分に切らずに。チーズバーガーが届くと、その子「ありがとう。チーズバーガー直してくれた」って喜んでチーズバーガーに何度もキスをしたそうです。  お姉さんがその写真を取って、レストランのサービスの良かったことをFacebookに載せた所、それが22万以上もの「like(いいね)」と10万以上のコメントにつながったらしです。レストランのマネージャーはその後Autism Speaks(自閉症をサポートする組織)の代表者からもお礼の電話があったようです。  ちょっと良い話でしょ。

個別教育目標・IEPその1:個別性

 先日東京を訪れた時の話をしますね。大学生時代に東京に住んでいたんですが、もう10何年前の話なので、町並みが新鮮に映ります。新宿なんか凄い人数の人が歩いていて、特に朝よりも夜の方が人が多い印象でしたね。夜11時でもすごい人が流れている。名古屋とは人口が違いすぎるなあ、何でこんな人数の人が生活していて大混乱にならないんだか不思議だと思いません?あれで地震なんかあったら大混乱で人波にやられそう。昔のゴジラの映画みたいになるんだろうか。女の人がキャーって叫んで。怖い怖い。まあ名古屋の方が南海トラフ地震予想などでやばいと言われているか。てな事を考えながらついぼんやりしてしまいます。口を開けて歩いてなかっただろうか。歩く事に集中できてない。ただでさえこんなようにぼんやりしているのに、さらに地方から来るとビルの上の方にある看板広告などに視線を奪われて、何となく上向いて歩いちゃいますよね。ビルで空が狭くって、しかも色々な広告で情報過多になり、どうしてもフラフラ歩いてしまう。地方出身者か観光客であることがバレバレですよね。ふと、「このままフラフラしているとぼられるかもしれない」と、地震よりもより近未来に起こりそうな現実に引き戻されます。ただのカラオケの呼び込みの人たちにも、何となく「この人に言葉巧みに騙されるかも?」とか、東京の人がみんな私を狙っているかのような被害妄想になるので、さらに怪しい物腰になり、しかも鞄をしっかり持つので必要以上に肩が凝ります。今回は特に迷わずに帰ってこれましたが、地方の人が東京に出るとこんなに大変なんですよ。え、私だけ?  知らない(久しぶりの)土地を探索するということでも、人ぞれぞれですよね。知らない場所ということですから、どの人もそれなりにストレスはあるでしょうが、特に看板なんかにとらわれない人もいれば、気を取られて他にぶつかってしまう人もいる(東京に住んでいてもそうなる人もいると思う)。私のように考え事でぼんやりしてしまっている人もいれば、ちゃんと目の前のこと(歩く事)に集中出来る人もいる。呼び込みや客引きに対応するのも気にならない人もいれば、やけに丁寧に対応してしまう人もいるでしょう。自閉症などの発達障害の治療教育では、その個別性に重点を置く事が必要となります。  私の尊敬するアメリカの学校の校長先生がいたのですが、その校長先生の意見によると

その先へー「福祉、自閉症、治療、教育」への補足

 前回、東京でのセミナー講演の話をして、アメリカの実際のところというか、夢のような国でもないよというような視点を紹介しましたが、今回はその補足です。実際の国ですから、それは夢のようなことばかりでは無いのも当然です。セミナーではあまり私の意見は言いませんでした(言っちゃっていたような気もする)が、ここは私のブログなので私の意見も継ぎ足しちゃいますね。  私の前に講演して下さったNPO法人発達わんぱく会理事長の小田先生が、詳しく福祉の制度について説明して下さいました。( ちなみにADDSさんからの報告のブログはこちらまで。 )ちょうど私の講演の部分と足らない部分を補う形になって、良かったと思います。私もずいぶん勉強になりました。  日本の福祉・教育はどういう方向に向いたら良いのでしょうか?私は現状のシステムを徐々に改善することが一番だと思います。日本でも2012年から「児童福祉法」といった福祉の法改正から、自閉症、発達障害児への早期の治療教育が公的に援助される可能性ができているわけです。しかし、小田先生も指摘されていたように利用する企業が比較的少ない。老人ホームなんかを見てると、最近の法改正により本当に今たくさんの企業が経営に参加していますし、あの勢いとは比較にならないですよね。あくまで私の勝手な推測ですが、理由の一つとしては、福祉の法律なので当たり前ですが、どちらかと言えば福祉の関係者からの発想でできており、心理・教育の関係者との連携にまだまだ改善の余地があるからかもしれません。ちなみに小田先生も社会福祉士(ソーシャルワーカー)ですよね。治療教育を行うとすればその専門家は心理・教育の分野にいますから、社会福祉士などの福祉の専門家が、心理・教育の専門家が連携してより良いものになるものだと思います。もちろんどちら側の発想も重要です。現在児童福祉法が福祉の法律であることは確かなのですが、心理・教育側の意見もしっかりと取り入れて今後法律を改善していく余地があると思います。  もう一つ重要なのは、治療教育の質です。現段階では、社会福祉士、保育士、臨床心理士、作業療法士、言語療法士などの専門家を雇うことが明確にされている以外には、特にサービスの質をどうやって管理し改善して行くことが法に直接書かれていない。研究の結果明らかになっている治療教育の方法を使う事を義務づけたり、国全

福祉、自閉症、治療、教育

 先日(3月3日)自閉症の早期教育を根付かせようと頑張っておられる、NPO法人 ADDS さんのセミナーに呼ばれて東京に行ってきました。今回は講演する側ということでしたが、自閉症児を持たれる親御さんや治療教育関係者など100人を超える方が参加して下さい、ありがとうございました。日本でも自閉症治療教育への関心の高まりが感じられ、はっきり言って意外でした。というのも、アメリカから帰って来てある日本の親御さんの体験談を聞くと、自閉症の診断を受けた時は「そのまま受け入れてあげて下さい」というようなことを言われ、特別にABAなどの療育についても紹介されなかったとおっしゃっていました。事務所の近所の特別支援の幼稚園では、「ええ、毎日やるんですか?ABAの先生も一度来られたけれど、ABAは月に一回とかやるものだと思っていました。」と言われました。日本では治療教育について誰もまだ知らないのではないか、という漠然とした印象を受けていました。しかし会場では明らかにかなりの知識を持たれた方からの質問が続き、あまりに対照的で新鮮でした。日本でも知っている人は知っているんですね。逆にそう言う知識を持った人の集まりが今回のセミナーであり、新しい動きの象徴であるのでしょうか、自閉症の治療教育についての知識と経験が徐々に培われつつあるんだと感じました。私の講演の内容について興味のある方は、ADDSさんが ブログ の方に報告してくれていますので、よろしければそれも合わせてごらん下さい。100人を超える参加者を集められたADDSさんと、それを支えられた裏方さんに感謝します。学生セラピストさんが託児までしていただいたようで、ありがとうございました。  今回の講演については、「アメリカの事例を紹介して下さい」と依頼を受けました。アメリカに12年もいたんだから、そりゃ紹介くらいは簡単にできます。しかしスライドを作るにつれて、本当にこんな事知りたいんだろうかという疑問がわきました。みんなアメリカの進んだ療育の話はよく聞きますよねえ。親からしたら、今すぐ手に入らない物の話を聞かされても、はっきり言ってやってられないですよね。スライドを見ると、「羨ましいでしょう?20年後にこうなるかも?日本もがんばろう!」という感じになってて、そんな話セミナーで聞いて帰って、自宅で自分の子どもの療育の現実を目にして、頑張ろうと

学び方それぞれ

 おじいちゃんと一緒にモーニングを食べに行ってきました。「モーニング」ってご存知ですか?名古屋地方で喫茶店に行くと、「モーニングサービス」と称して、コーヒーや紅茶を頼むと、簡単な朝ご飯がサービス(=ただ)でつくんです。良いでしょ?今回は喫茶店ではなくって、コーヒーも飲める喫茶室付きのパン屋さんだったんですが、320円で、コーヒーと160円までの調理パン(種類は色々)が2つ選べるんです。しかも小さなクロワッサンに生クリームが入ったものは、勝手についてきました。すごいでしょ?おじいちゃんは、胃がん手術後順調に月に1キロ体重を増やし、すでに全回復に見えます。さすが。朝ご飯を食べてからでかけたのに関わらず、大きなパンとクロワッサンも普通に食べて、甘いものは「別腹」と言い切っていました。手術で胃を3分の2切り取ったはずなんだけれど・・・。「食べれるようになったね。」と言うと、「まあ、最初の頃は口に手を突っ込んで戻しとったけどな。」と語っていました。やっぱり無理していたか。でも、普通手術後そんなに無理して食べるか?  春の陽気の暖かさに、車いすのおばあちゃんと歩いて行きました。やっぱり車いすを押して移動するって、やってみないと不便さは分かりませんね。道路も普通に歩ければば何ともないのだけれど、微妙にちょっとした傾斜がかかっていたり、歩道に入るところに段差があったり、車いすを押すからこそ色々なこ とが目 に見えるようになる。というか、ちょっと歩くだけでかなり疲れる。私が疲れるくらいだから、これはおじいちゃんが車いすを押して歩いて行けないはずだ。喫 茶店でも、入り口の片方はドアの所の段差が気になるし、出口はスロープがあるが自転車が止められていて自転車を動かさなければ出られない。障害者がどんなところで問題に突き当たるのか、どんな所が難しいのか、本当にみんな体験してみなければ分からない。   自閉症の療育は、結構「やってみなければわからない」所が多いと思います。自閉症なんて一概にひとくくりにされているけれど、本当に色んな症状があるんです。ですからそれぞれの問題もかなり異なっていて、車いすのように皆が同じような問題にぶつかるとは言い難い。一般に自閉症の人は、ビジュアルというか視覚を使った教え方が有効であるとよく言われます。これは、耳で聴覚から聞いた言葉はそのまますり抜けてしまうけれど

療育中の気持ちの浮き沈み

 今日で3・11から2年目になりますね。昨日・今日はテレビや新聞等でも特集が組まれていますが、本当にゆっくりとしか復興が進んでいなくて「将来が見えない」ということに不安を募らせている被災者の方も多いようです。また、最近は「忘れられてきている」と感じている被災者の方が多いような報道を見ます。私も地震があってすぐは募金などをしたんですが、最近は気になっていつつも何もしていないです。全国にも「気になってはいつつも・・・」という方も結構多いと思います。気持ちだけでは伝わりませんから、何か行動にして、形にして気持ちを伝えなければいけませんが、なんだかぼやぼやしている間に時間が過ぎてしまう。ブログに書くだけでも、何もしないよりはましですかね・・・(勝手なことを)。どうか復興に向けて頑張って欲しいです。名古屋地方の中日新聞では特に3・11などの記念でない日にも一面に、「犠牲の灯り、第2部 飯館 女たちの哀歌」のシリーズとして被災者一人一人のストーリーが綴られています。本当にものすごいドラマが展開されていて読み応えがありますが、こういった現実を語り継いで、忘れないようにしなければいけませんね。ちなみに、中日新聞のこのシリーズに興味のある方は、ウェブサイト上で簡単に読めますので検索してみてください。   思えば自閉症の診断も、地震のようなものかもしれません。人口の何パーセントかは必ず診断されるものということですから、確立で言えばどの家庭にも起こる可能性はある。しかもどういう生活習慣や食べ物、環境要因を避ければその確立を下げられるのかも分かっていないのですから、防ぎようもない。(そう言えば、半年くらい前ですがアメリカの新聞記事で、父親の年齢が高いと自閉症診断の確立も増えると出てましたかね。まあ父親の年齢が高ければ他の病気のすべての確立も高いのですが。)診断されれば、普通に思い描いていた人生計画というか、子どもに期待していた予想図を完全に崩されて、療育や特別支援教育などといった新しい道筋を建てることを余儀なくされる。多くの親から、「診断された日はもう二日間泣いた。それからどうしようか考え始めた。」と聞きます。こういう人生の大きな局面で色々なドラマがあります。  早期教育をしていると、親の悩みや感情の浮き沈みのドラマに常にさらされているような感じですね。子どもの成長が目に見える時は、「

ABA:シンプルな行動の理由

 最近合気道を始めました。私実は武道一切やった事無いんです。もちろん義務教育中の体育の授業でやらされる柔道とか剣道を除きます。私子どもの頃はそう言うの絶対嫌いでしたね。でも、大人になってやってみたくなる事もあるでしょう。でも人にこのことを話すと、まず「ええ?」と驚かれ、その次に「何で?」「どうして合気道?」「やったことあるの?」なんて聞かれます。私は時折こういったあまり脈絡のない行動に出ます。昔髪の毛を坊主刈りにした時も色々聞かれました。私からすると「別にやってみたかったから」とか「格好良さそうだから」「体に良さそうだから」程度の理由で始めたことだし、深い意味はないので、聞かれると答えづらい。あんまり人から聞かれるものだから最近は、「日本に帰って来て、日本らしいものを始めたかったから。」とか、「合気道は試合がないから、怪我が少なさそうだ。」とか、人が納得しそうな理由を探し始めました。はっきり言って面倒くさい。どうして皆「理由」を求めるのでしょうね。何か理由が無ければ行動を始めて行けないのだろうか。   その点行動分析学は私には最高に合っている。行動が起こる理由というのをシンプルに分析する。というか、あまりにもシンプルすぎて逆に一般受けしづらい傾向がある。心理学のその正反対にあるのは、精神分析だと思います。行動が起こる理由を深〜く分析する。同じように逆に深すぎて一般受けしない。私は頭が比較的シンプルなのか、行動分析を学び始めたときは、「これだ」と思いましたね。行動を増やす強化とか減らす消去とか、とりあえず確実に分かる事、証明されている事を使って行動を分析しようとしたり、行動を変えようとするやり方が行動分析学(ABA)なんです。もちろん行動の科学で行動すべてが解明されている訳ではないし、これまでの研究の成果がが新たな研究の成果によって覆されることもあるのですが、それが科学というものです。少なくとも「専門家」の勝手な推測や理論によって振り回される可能性が少ない。  昔自閉症の子どもは、「親が冷蔵庫みたいに冷たいから子どもが心を閉ざしてしまった」と分析されたりしたのご存知ですか?「専門家」にそう言って言われた親って、ただでさえ学習が困難な子どもを抱えいるのに、さらにその問題の原因とされてしまっていた親って、どうやって過ごしていたんでしょうか?絶望的ですよね。行動分析(A

ABAペアリング:価値を変える

 先日名古屋のアメリカ領事館に行ってきました。領事館のイメージとしては、何となく大々的に「領事館」とかって看板とかあって、「私の国を知ってください。」「色んな人いらっしゃい」という雰囲気で、アメリカ人とか日本人が大勢行き来している市役所のアメリカバージョンいたいなのを想像していました。全然違いましたね。ビルの中の小さな入り口で、知らなければ絶対通り過ぎてしまう。警備員がいて、何のために来たのかを説明しなければドアの近くにも寄れない。ドアは鍵がかかっていて(営業時間中でも)、インターフォンで中の人にもう一度理由を説明して初めて入れてもらえる。それから、飛行場のセキュリティーみたいなのをくぐって、荷物を検査されるんです。  セキュリティーを通りながら、ふと壁を見るとオバマ大統領、バイデン副大統領、ヒラリークリントンの写真が並んでいて、「ここは日本国内でも、アメリカの領土なんだ」、とつぶやきました。するとセキュリティーのおじさんが、「そう、そこのドアからこちらは、ユー、エス、エー!」と興奮気味に答えてくれました。このおじさん面白いでしょ?ユーモアというか、いい味出してる。ちなみに用事は全部日本語ですみました。「ユー、エス、エー!」って、微笑んでしまいますよね。  ユーモアのセンスって人それぞれだけれど、自閉症に教えることは難しい。というか、面白いと感じるか、感じないかはそれぞれの価値観なので、教えられるものではないのです。ABAにおいて価値観をかえるには、ペアリングというのを使います。簡単に言えば、「ペア」って「一対」ってことです。「好き」な物と「普通」の物を何度も(何百回、何千回)一緒に(対にして)提示することで、徐々に「普通」の物が「好き」になるのです。例えば、赤ちゃんが徐々にお母さんの姿、声、肌触り、においなどを識別し、(他人より)お母さんの方に近づこうとするのは、お母さんの姿や声などが「ミルクをもらえる」「暖かくしてくれる」「おむつを交換して清潔にしてくれる」「守ってくれる」といった、赤ちゃんに取って「好き」なことと何百回も何千回も結びつく(ペアリング)ためと言われます。ちなみにペアリングの効果は(普通の物が好きになる)、すぐに起こる事もあれば、残念ながら何百回しても起こらない事もあるんです。ですが、私は療育(治療教育)上大変重要な手法として使います。特に早期

音声模倣:質問への回答2

 前回の投稿に付け加えて、質問への回答をします。  質問の内容は以下の通り。 音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。「あか、あお、もも」は、まね出来る様になりましたが、「ばなな、りんご」などがまね出来ない状況です。「立って」、「コップ取ってきて」、「ばななを指指して」などが出来るので、物の名前などは分かるはずなんですが。    他の方にもためになると思いますので、私の回答を以下に載せておきます。  音声模倣は一番難しいレッスンの一つです。どうしても身体プロンプトが使えないので、シェイピング・分化強化していくしかありません。ここで大切なことが二つあります。 1:「物の名前が分かっている」ということと、「物の名前が言える」というのは、全然別のスキルだということです。 2:「一音一音が言えるのだから、組み合わせも出来るはず」と一概に考えてしまいがちですが、そうとも限らないということです。  私の経験からすると、自分の名前が言えない子どもがいました。「名前は?」と聞くと、「イェティー」と言いますが、本当の名前は全然違うんです。しかも、名前の一音一音を模倣させると言えるんですが、組み合わせると何故か大分違う「イェティー」になってしまう。本人は結構自身満々で言っています。スピーチ(言語聴覚士)の先生も「組み合わせの音は難しい」と言われました。  こういう場合、子どもと療育する場合の両方にストレスがかかってしまいます。物の名前が分かっていても口で言えない(自分では言っているつもりでも口から出てこない)というのは子どもにもストレスがかかります。教えている方は「何で言えないんだろう」という疑問から、ストレスがかかります。はっきり言って、ストレスをかけたまま練習を繰り返して、あまり喋らなくなってしまった(話す事自体が嫌になった)例も見ました。  どういうことかというと、私の理解では、筋肉を育てる必要があるので、時間がかかるということです。大人は流暢にはなしているので、筋肉を使っていることさえ意識していませんが、顔の筋肉は複雑です。話はじめの子どもは筋肉が発達していないので、特に音の組み合わせを覚える際には、しょっちゅう話させて筋肉を徐々に育てることが大切です。  私の場合、ストレスをかけないように言葉全体の練習をすることが大切だと思い

教育で行き詰まった(質問への返答)

 質問をいただきました。ありがとうございます。また、投稿という形で返答させて頂きます。  「(4歳児が)動作模倣、音声指示、音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。なにかしら突破口があれば、ご伝授お願い致します。」という質問です。残念ながら「一行に3文字」というところがよくわかりません。音声模倣が3音までできる(おかし、ほしい、等)ということですかね。  色々教育をしてきて先に進みづらいというか、天井にあたったというか、これまではそれなりに学んで来たけれど、学ぶスピードが落ちて来たとき等、そう言う時もありますよね。しっかりとした教育をしていても、そう言う事はあります。だいたい学び方は、いつも単純に右肩上がりという訳ではなく、時には学んでいないように感じることがあるのが普通です。そう言う時に、第三者の目線って大切ですよね。自分が気づかずにおかしている間違いに気づいてくれる。ええ、成長してるよ、って言ってくれる場合もあります。自分で解決しようとする場合、ちょっと他の事をしてみたり、その事につい考えないようにしていると、しばらくすると「ああ、こんな事をしていたから先へ進めてないんだ。」って気づく場合もあります。  この質問者の場合については詳しくは分からないのですが、ちょっと目線を変えた療育にしてみるという手もあります。例えば、椅子に座らせて「あ」「い」等という五十音を模倣することを教えたのであれば、逆にそういったやり方を辞めて、例えばお菓子が欲しいときに、「ちょうだい(4音)」と言わせるとか、外に行きたい時に「ドア開けて(5音)」と言わせるとか、生活の中でだけ教えるというように、教育の方向性を変える事も良いかもしれません。え?それぐらいはもうやっているよ、って?これがやり方によって色々効果に差が出ます。例えば、上手い人がやれば遊びの中だけで、歌を歌って歌詞を言わせるとか、踊りを踊って「イエーイ」と言わせるとか、お笑い芸人のギャグの真似をさせるとか、遊んでるだけでかなりの音を出せるようになりますよ。もちろん子どもによってはそう簡単に遊びに乗ってこない子どもとか、椅子に座ってやる方が断然やる気があがる子もいるので、あくまでアイデアとして取ってください。  でも、毎日やってると何が良くて何が悪いのか自分では分からなくなる事もありますよ。似た

誤学習:教えようとするあまり

 誤学習とは、誤った行動を学んでしまったり、正しい行動が誤った状況で起こってしまうことです。教育しようとした側が意図しない結果になることです。例えば、何かしてもらった時に礼を言うことを子どもに教えたいとします。ごく普通の教え方としては、何かをあげる前に「ありがとうっ、て言って。」などと子どもに言いますよね。自閉症の子どもによくある誤学習は、「ありがとう」と言わずに、「ありがとう、って言って。」と文章全部を繰り返してしまう事です。他の例としては、「ごちそうさま」と言う事を教えたいのに、ご飯を食べ終わったあとに「ごちそうさま」じゃなくて「ありがとう」と言ってしまうなどです。「ありがとう」自体は誤った行動ではないのですが、言う状況が間違っている。これも良く見られます。  この程度の誤学習は比較的簡単に直す事ができます。例えば教える側が、「ありがとう、って言って。」と言わずに、「ありがとう」だけ言うようにする等です。しかし、長年かかって学習してしまった行動は、修正が難しいこともあります。ある学校で、こんな生徒がいました。その学校では、否応なしに子どもを椅子に座らせて勉強させる。子どもが嫌がって席を立とうとすると、連れ戻してきて座らせる。もちろん勉強ができれば、しっかり褒められてご褒美ももらえる。大部分の生徒は、最初は連れ戻されるから仕方なくやるけれど、徐々に褒められる喜びのために勉強するように変わって行き、逃げださなくなる。他の学校では学ばなかった子どもが、この学校ではしっかり学ぶようになることも多く、親から見てもこの学校に期待する度合いは大きい。しかしその生徒は残念ながら、しっかり褒められて学ぶ喜びよりも、逃げても連れ戻されるから仕方なくやっている方が強かったようなのです。体が大きくなるに連れて(中学生になるぐらいで)、抵抗すれば勉強しなくてよいことに気づいたのです。これまでは、逃げ出そうとすればすぐに席に連れ戻されていたけれど、床に寝そべって「うどん」のように体をしならせれば、もう大きくなった体は持ち上げられにくい。できたとしても、時間がかかるので勉強時間は減る。教室に入らずにドアの前で床にごろんとすれば、もう先生は引きずって席まで座るのは難しいので、勉強の時間が減る。色々有益な行動を教える予定が、予定外の「うどん」になる行動を教えてしまったわけです。こういった状態で

地域でする教育:ABA般化

 高校時代からの友達のエイちゃんとカフェに行きました。「カフェ」って言われて、「コーヒ屋さんのこと?」と思いつつ、そう言えば、テレビを騒がせたどっかの犯罪者も「猫カフェ」って言うのに行っていたなあとぼんやり思い出しました。ごはんも食べられたり、お酒が飲めるところもあるんですね。カフェだけを紹介した雑誌やブログもあるらしい。やあ、少しいないと日本も変わる(ああ、12年いなかったか)。そこのカフェは春日井市のベル何たらさん(すいません名前覚えてなくて)。経営者一人だけで注文取りから料理まですべてこなしていました。美味しかったですよ。小洒落た内装も個人でやられたのでしょう。私も個人経営しているから、そういう人がんばって欲しい。  ところで学校の先生をしているエイちゃん、生徒のお母さんに「挨拶運動はしないんですか」という声をかけられたと話していました。「挨拶運動」という言葉自体がなつかしい。私は、挨拶などの基本的な作法は家で教えるものと思いますが、家だけで挨拶を教えるよりは、地域が一体となって挨拶をもりあげる方が、家で挨拶する子どもではなく、家と地域両方で挨拶する子どもを育てられる。ABAではこういうの、「般化」っていいます。行動を色々な場所で起こるようにする。学校が躾作法の教育を手助け出来る良い例だと思います。  自閉症の教育にも地域の協力が本当に大切なんですが、自閉症児に対してどう接すれば良いのか、一般の人には分かりづらい。自閉症の子どもは顔が可愛かったりするもんだから、顔だけ見ていると健常児でわがままなだけに見えてしまうので、公園やスーパーで泣いてしまっていると、「躾が悪い」などと親が非難されてしまったりするんです。自閉症を知らないところから来ることなので仕方の無い事なんですが、協力どころか非難される経験があると、親も外に出づらくなってしまい、ますます自閉症児が地域で目に付かず、一般の理解はさらに深まらないという悪循環になりやすいんです。  私のアメリカの相談を受けた親からこんな話を聞きました。自閉症の子どもが、外出先のバス停でバスが遅れてきたためにパニックになって、周りの人から大ひんしゅくを受けた。周りの人に「私の子どもは自閉症で、特殊教育に行ってって」って説明してやったけれど、 理解は得られなかった。このお母さんは偉いですね。障害をちゃんと他の人に説明しよう

待つ力:欲しい物を待てる?

 今日アメリカの国土安全保障省に電話して、申請手続きに関する質問をしました。そういう所って、だいたい始めは機械が応答します。日本語に翻訳すると、「お電話ありがとうございます。○○の方は○番を、○○の方は○番を押してください。」といった感じで流れますので、番号を押して回答していきます。「お待ちいただきありがとうございます。電話をかけられた順番で応答します。申請書類の番号を用意してお待ちください。」といったアナウンスが流れつつ、このまま国際電話なのに30分も待たされました。結局のところ待てずに電話を切ってしまいました。それだけ待てば本当に腹立ちますよね。外国人だからって(国土安全保障省に電話するのは基本的に外国人)、そんなに待たせなくて良いですよね。日本の官公庁は最近ずいぶん親切になってきましたから(というか前から)、電話で30分以上待たされるという事はまずないと思います。  日本では官公庁でないところで、結構待たされます。電車とか、ラーメン屋とか、テーマパークとか。でも驚いた事に、みんな平気な顔で待ってますよね。両親と墓参りの帰りに、ついでだから近くの小さなテーマパークに寄りました。お昼を食べたかったのですが、どこのレストランからも「18組待ちです。」なんて言われて待つ気すらしません。肉まんやコロッケなどの軽食を買うのにも行列。しかも並んでない所に行ったら、「材料が亡くなってしまいました」とかで、待たずに食べるという選択肢がひとつもない。それでも、並んでいる人を見ると、どなたも別に平気そうなんです。驚くべき日本人。そんなに腹減ったまま待たされて大丈夫なのか?私的には暴動起こす寸前だったんですけど。日本人は行儀が良いということなんでしょうか。  自閉症や発達障害がある子どもの療育をすると、よく「この子は全然待てないんです。欲しいお菓子があればすぐに椅子に登ってでも棚から取ろうとするし、ダメだと言ってもその場では聞いたような顔をしているんですが、すぐにまた取りに行ったり。」という事を聞きます。「待つ」という行動を教えるにはどうしたら良いんでしょうか?残念ながら、人って待てないもんです。「待って」という指示に従うように教えられない事もないですが、言語が発達していない子どもの場合、基本的に教えられる待ち時間は短く、長くても一分とかが限界です。というのも、言語できちんと説明

ABA:消去

 自閉症の療育に関わらず、ABAは誤解される事本当に多いんですよ。色々誤解されやすいような専門用語もあるし、その考え方自体が分かりづらい場合もある。今回はその中で「消去」について触れて行きたいと思います。というのも、先日あるお母さんから、以下のようなアドバイスを聞いた事があると聞きました。「外出先で子どもが泣いてしまった時、絶対子どもの思い通りにやらせてはいけない。子どもの思い通りにやらせてしまうと、泣くという行動を将来的に増やしてしまう。どうせ泣いても30分くらいなのだから、泣かせておけば良い。」どう思います?理論的には正しいけれど、外出先という状況を考えるともっと良いでしょう。  理論的にちょっと説明しますね。例えばスーパーで買い物している時に、子どもが抱っこして欲しくて、泣くとしますよね。「泣く」という行動に焦点を置くと、親が抱っこする事で、行動の後に良い事があったのですから、将来的には抱っこして欲しければすぐに「泣く」ようになってしまう訳です。簡単に言えば、泣いたからと言ってすぐに抱っこする癖を付けているために、泣く行動がいつまでたってもなくならない。ではそれを変えるためには?泣いても抱っこしないようにする事で、その場一時的にはもっと泣くかもしれないけれど、将来的には徐々に泣かないようになっていく(泣く行動を消去できる)という事です。ただし、そう簡単に教科書通りに行くぐらいなら、コンサルタントはいらないですよね。  先に「外出先という状況を考える」と言いましたが、一般の人(子どもの事やABAの療育などを知らない人)が見ている状況で子どもを30分泣かせるのは、親の気持ちを考えると疑問に思えます。ある自閉症児を持つお母さんが以下のような話をしてくれました(実際の話です)。このお母さんの子どもは、スーパーに行って欲しい物があると、すぐに泣いてしまい、あまりに大きな声で泣きわめくため、どうしても子どもの欲しい物を買わざるを得ないと話しました。以前ABAを少し知っている方から、「スーパーで泣いても子どもの欲しい物をあげては行けない」と言うアドバイスを受けてそれに従ったところ、45分間子どもが泣き続け、泣いたあげくに(意図的に出はないが、かんしゃくの一部として)ワインのボトルを落として割ってしまった。店員さんを呼んで片付けようとしているのに、子どもは先に店を出ようと

日本の福祉制度に質問

 日本で生まれて、「自閉症の傾向があるのでは」と懸念された場合、一般的にはどういった流れで福祉のシステムが利用されるのでしょうか?私も自閉症の福祉制度を勉強するために、地元名古屋市や、愛知県のウェブサイトを見たり、自閉症に関連する施設に電話をかけてみました。電話に答えて、特に丁寧に説明くださった公務員の方、ありがとうございました。  まず、愛知県のウェブサイトで検索のところに「自閉症」とタイプすると、「あいち発達障害者支援センター」が出てきます。ウェブサイトによると、これは愛知県の春日井市にあって、愛知県コロニー「緑の家」という名前で発達に心配のある子どもとその家族が宿泊して(1泊、2泊、4泊5日など)、治療教育や発達検査を受けられるようです。ウェブサイトの内容も分かりやすい。ウェブサイトで自閉症と検索するとすぐにセンター名前が出てくるのですから、愛知県で自閉症と言えばここに行くのだろう、と率直な印象を受けました。  電話をかけてみると、応対はとっても丁寧。今思い返すと、一番先に電話をかけたここが、一番対応が良かったですね。丁寧に質問に答え説明してもらい、本当にありがとうございました。しかし丁寧な対応なのですが、愛知県の福祉の現状については、やや驚く事が多かったです。このようなやり取りです。 こうじ:「最近療育で起業したんですが、パンフレットをおかして頂けますか?」 担当の方:「多分良いんじゃないですか。ただ、ここは奥まった所だし、あまり人の目につきませんよ。」 (こうじ心の声:あまり人が来ないって?愛知県が全面に推しているのでは?) こうじ:「じゃあ自閉症児を持ったお母さん達はどこへ行って相談するんですか?児童相談所とかですか?」 担当の方:「そうですね、どこに行くんでしょうかね?親は保育園の先生、保健センター、児童相談所ということもあるかもしれません。保育センターでは子育て支援や親子教育などもあるので。」 (こうじ心の声:保育園の先生や保育センターでの子育て支援っていうことは、自閉症の専門でない方が主に相談にのるということ?) 担当の方:「自閉症の診断が必要かの判断もあるし。タイミングもあるので。流れの中で、取りあえず上手くやって行ける事もあるので。」 (こうじ心の声:え?診断が必要?日本では自閉症って、症状がある時に診断するのではなくて、「

教師の体罰その3

 前回から引き続いて、体罰についてコメントします。今回は科学的な専門家としての話ではなく、私の日本とアメリカでの経験を基に体罰の善し悪しについて、その背景にある日本の文化について語ります。  突然ですが私の父は体育会系(元警察官)で、体罰容認派ですね。彼の意見では、「叩かなければ危ない行為を繰り返すやつもいるからなあ。怪我をするくらいなら、叩かれてその前で済む方がましだと思うけどなあ。」「叩いたりする事を指導と受け取るか、体罰と受け取るか。ちょっと叩かれたぐらいで嫌になるなら、そんな態度ならスポーツなんて止めてしまえば良い。」 といった感じです。 私の母はやや中間派で、「子供によって受け取り方はそれぞれだから、こうじの様に気にしていつまででも覚えているような子にはやっては行けないし、いくら叩いても全然気にしない子供もいるから、子供に合わせなければいけない。」「優しくだけしていればコーチもなめられるし、中学生や高校生の指導は難しいか も。」なんて言っています。ちなみに根性のない文科系(文科系の皆様ごめんなさい)の私は体罰否定派です。やっても意味のない(良い効果が得られない)、しかも副作用もある体罰はやる意味がわからない。  父の話を聞くと、罰を受けて「危ない行為」を減らす方が怪我をするよりも良いのではないか、と言う所が特に説得力ありますよね。しかしこれも論理に落とし穴があります。「危ない行為」をよく聞くと、「ちんたらやっている」とか「気合いが足らない」とかなんです。「気合い」というのは目で見えませんから、「走るのが遅い」「声の出し方が小さい」等の行動で判断しますよね。では、「声が小さい」「ゆっくり走る」人は「怪我をする」のでしょうか?もちろんそんな因果関係はないのです。「気合いが入れば怪我が少ない」という事を信じた結果、「ゆっくり走る」「小さく声を出す」という直接には怪我に関係のない行動も許せなくなってしまったのかもしれません。ニュースで報道された柔道のコーチの話を聞いても、「朝トレーニングに遅れてきた時に、叩いた」と言っています。時間を守るって、柔道の技術に直接関係ないじゃないですか。父のように、「朝遅れて来る」→「気合いが足らない」→「怪我につながる」という論理になってしまったのかもしれません。もちろん大間違いの考え方と思います。  教育をする際は、危ない行