ABA:シンプルな行動の理由

 最近合気道を始めました。私実は武道一切やった事無いんです。もちろん義務教育中の体育の授業でやらされる柔道とか剣道を除きます。私子どもの頃はそう言うの絶対嫌いでしたね。でも、大人になってやってみたくなる事もあるでしょう。でも人にこのことを話すと、まず「ええ?」と驚かれ、その次に「何で?」「どうして合気道?」「やったことあるの?」なんて聞かれます。私は時折こういったあまり脈絡のない行動に出ます。昔髪の毛を坊主刈りにした時も色々聞かれました。私からすると「別にやってみたかったから」とか「格好良さそうだから」「体に良さそうだから」程度の理由で始めたことだし、深い意味はないので、聞かれると答えづらい。あんまり人から聞かれるものだから最近は、「日本に帰って来て、日本らしいものを始めたかったから。」とか、「合気道は試合がないから、怪我が少なさそうだ。」とか、人が納得しそうな理由を探し始めました。はっきり言って面倒くさい。どうして皆「理由」を求めるのでしょうね。何か理由が無ければ行動を始めて行けないのだろうか。
  その点行動分析学は私には最高に合っている。行動が起こる理由というのをシンプルに分析する。というか、あまりにもシンプルすぎて逆に一般受けしづらい傾向がある。心理学のその正反対にあるのは、精神分析だと思います。行動が起こる理由を深〜く分析する。同じように逆に深すぎて一般受けしない。私は頭が比較的シンプルなのか、行動分析を学び始めたときは、「これだ」と思いましたね。行動を増やす強化とか減らす消去とか、とりあえず確実に分かる事、証明されている事を使って行動を分析しようとしたり、行動を変えようとするやり方が行動分析学(ABA)なんです。もちろん行動の科学で行動すべてが解明されている訳ではないし、これまでの研究の成果がが新たな研究の成果によって覆されることもあるのですが、それが科学というものです。少なくとも「専門家」の勝手な推測や理論によって振り回される可能性が少ない。
 昔自閉症の子どもは、「親が冷蔵庫みたいに冷たいから子どもが心を閉ざしてしまった」と分析されたりしたのご存知ですか?「専門家」にそう言って言われた親って、ただでさえ学習が困難な子どもを抱えいるのに、さらにその問題の原因とされてしまっていた親って、どうやって過ごしていたんでしょうか?絶望的ですよね。行動分析(ABA)では、自閉症という複雑な問題にも、行動の原理というシンプルな基本に従って分析します。例えば、「健常の子どもには強化子となるものが、自閉症の子どもには強化子でない」とか、「適切な行動が強化されていない」などと分析します。一般の人に分かる言葉で言い替えますね。普通子どもって褒められるとうれしくなって、何度も褒められた行動を繰り返したりしますよね。自閉症の子どもは、褒められても別になんともない場合も多いんです。誰かが「すごーい。」って笑顔で言っても、目をそらしたまま反応もない。人の行動なども見ていませんから、健常児が普通にする行動である「模倣」をすることもない。そうすると、健常の子どもが人の真似をしながら、人の顔を見ながら、一日中どんどん学んで行いっているのに、どんどん遅れが出てしまう。ですから、「褒められる」ことを、「うれしい」と思ってもらえるように変えたり、模倣する行動を教えたりすることで、その自閉症の症状を改善させよう。こういう風に考えるのです。
 行動分析で100%自閉症が治るということはありません。これは研究を見ても明らかに分かっていることです。ですが時折、「ABAで自閉症が治らないから、フロアタイムをやる」という事を聞きます。フロアタイムがABAとは違って、「親密さと暖かさ」「人と関わること」を育てて行くことに焦点を置いていることはご存知でしょう。では、ABAを使って行ける所まで行ったら、もしくはABAと同時にフロアタイムなどの療法をお勧めするでしょうか?私はしませんね。フロアタイムがダメとか言うつもりはさらさらありませんが、考え方が違いすぎて私からすると意味が分からないし(意味も分かっていない療法を紹介出来ない)、研究でも証明されていない(効果があるという証拠がない)療法を勧めるわけにも行きません。もちろんABAですべてを改善できないことは分かった上で、できること、分かっている事(効果があるという証拠のあるもの)をお勧めします。
 ちょっと掘り下げると、「私には(フロアタイムの)意味が分からない」と言いましたが、私は行動分析学を学んでいるので、それに合わない論理構成に納得できないということです。行動分析学の教科書には良く出てくる例で説明しますね。「人と関わることができない」「親密さと暖かさが確立されていない」というのは、どうやって分かるのでしょう?例えば視線が合わないとか、ハグなどの人の愛着表現を無視するとか、そういった行動を観察してですよね。では、「人と関わることができない」「親密さと暖かさが確立されていない」ということが原因となって、視線が合わせられなかったり、ハグを無視したりするんでしょうか?逆だと思います。視線が合わないとか、ハグを無視したりするので、「人と関わることができない」「親密さと暖かさが確立されていない」と名前を付けられただけです。ですから、視線を合わせられて、ハグがうれしそうにできて、というそれぞれ一つずつの行動が改善されて始めて、「親密さと暖かさを確立された」と言えるけれど、「親密さと暖かさを確立した」ことが原因となって、一つずつの行動が改善されたというのは、原因と結果が混乱してしまっていると思います。行動分析が行動に焦点を当てるのは、見えないもの(親密さ、関わり等)を無視しているからではなく、行動が改善されなければそういった見えないものも変わらないと考えるからです。もうこれは考え方の違いなので、あまり深く議論しても仕方の無い事かもしれません。
 こういった基本の考え方は、どんな複雑な事象を分析する時にも基本的に変わりません。行動分析学を学ぶと、すべての人間の(そして動物の)行動をこれまで分かっている(証明されている)行動の原理に従って考えます。これは「世界は行動の原理ですべて説明出来る」という哲学というか、考え方です。ちょっと今回難しかったかな?

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