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2月, 2013の投稿を表示しています

ABAペアリング:価値を変える

 先日名古屋のアメリカ領事館に行ってきました。領事館のイメージとしては、何となく大々的に「領事館」とかって看板とかあって、「私の国を知ってください。」「色んな人いらっしゃい」という雰囲気で、アメリカ人とか日本人が大勢行き来している市役所のアメリカバージョンいたいなのを想像していました。全然違いましたね。ビルの中の小さな入り口で、知らなければ絶対通り過ぎてしまう。警備員がいて、何のために来たのかを説明しなければドアの近くにも寄れない。ドアは鍵がかかっていて(営業時間中でも)、インターフォンで中の人にもう一度理由を説明して初めて入れてもらえる。それから、飛行場のセキュリティーみたいなのをくぐって、荷物を検査されるんです。  セキュリティーを通りながら、ふと壁を見るとオバマ大統領、バイデン副大統領、ヒラリークリントンの写真が並んでいて、「ここは日本国内でも、アメリカの領土なんだ」、とつぶやきました。するとセキュリティーのおじさんが、「そう、そこのドアからこちらは、ユー、エス、エー!」と興奮気味に答えてくれました。このおじさん面白いでしょ?ユーモアというか、いい味出してる。ちなみに用事は全部日本語ですみました。「ユー、エス、エー!」って、微笑んでしまいますよね。  ユーモアのセンスって人それぞれだけれど、自閉症に教えることは難しい。というか、面白いと感じるか、感じないかはそれぞれの価値観なので、教えられるものではないのです。ABAにおいて価値観をかえるには、ペアリングというのを使います。簡単に言えば、「ペア」って「一対」ってことです。「好き」な物と「普通」の物を何度も(何百回、何千回)一緒に(対にして)提示することで、徐々に「普通」の物が「好き」になるのです。例えば、赤ちゃんが徐々にお母さんの姿、声、肌触り、においなどを識別し、(他人より)お母さんの方に近づこうとするのは、お母さんの姿や声などが「ミルクをもらえる」「暖かくしてくれる」「おむつを交換して清潔にしてくれる」「守ってくれる」といった、赤ちゃんに取って「好き」なことと何百回も何千回も結びつく(ペアリング)ためと言われます。ちなみにペアリングの効果は(普通の物が好きになる)、すぐに起こる事もあれば、残念ながら何百回しても起こらない事もあるんです。ですが、私は療育(治療教育)上大変重要な手法として使います。特に早期

音声模倣:質問への回答2

 前回の投稿に付け加えて、質問への回答をします。  質問の内容は以下の通り。 音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。「あか、あお、もも」は、まね出来る様になりましたが、「ばなな、りんご」などがまね出来ない状況です。「立って」、「コップ取ってきて」、「ばななを指指して」などが出来るので、物の名前などは分かるはずなんですが。    他の方にもためになると思いますので、私の回答を以下に載せておきます。  音声模倣は一番難しいレッスンの一つです。どうしても身体プロンプトが使えないので、シェイピング・分化強化していくしかありません。ここで大切なことが二つあります。 1:「物の名前が分かっている」ということと、「物の名前が言える」というのは、全然別のスキルだということです。 2:「一音一音が言えるのだから、組み合わせも出来るはず」と一概に考えてしまいがちですが、そうとも限らないということです。  私の経験からすると、自分の名前が言えない子どもがいました。「名前は?」と聞くと、「イェティー」と言いますが、本当の名前は全然違うんです。しかも、名前の一音一音を模倣させると言えるんですが、組み合わせると何故か大分違う「イェティー」になってしまう。本人は結構自身満々で言っています。スピーチ(言語聴覚士)の先生も「組み合わせの音は難しい」と言われました。  こういう場合、子どもと療育する場合の両方にストレスがかかってしまいます。物の名前が分かっていても口で言えない(自分では言っているつもりでも口から出てこない)というのは子どもにもストレスがかかります。教えている方は「何で言えないんだろう」という疑問から、ストレスがかかります。はっきり言って、ストレスをかけたまま練習を繰り返して、あまり喋らなくなってしまった(話す事自体が嫌になった)例も見ました。  どういうことかというと、私の理解では、筋肉を育てる必要があるので、時間がかかるということです。大人は流暢にはなしているので、筋肉を使っていることさえ意識していませんが、顔の筋肉は複雑です。話はじめの子どもは筋肉が発達していないので、特に音の組み合わせを覚える際には、しょっちゅう話させて筋肉を徐々に育てることが大切です。  私の場合、ストレスをかけないように言葉全体の練習をすることが大切だと思い

教育で行き詰まった(質問への返答)

 質問をいただきました。ありがとうございます。また、投稿という形で返答させて頂きます。  「(4歳児が)動作模倣、音声指示、音声模倣(五十音順)まで進みましたが、一行に3文字以上に進みません。なにかしら突破口があれば、ご伝授お願い致します。」という質問です。残念ながら「一行に3文字」というところがよくわかりません。音声模倣が3音までできる(おかし、ほしい、等)ということですかね。  色々教育をしてきて先に進みづらいというか、天井にあたったというか、これまではそれなりに学んで来たけれど、学ぶスピードが落ちて来たとき等、そう言う時もありますよね。しっかりとした教育をしていても、そう言う事はあります。だいたい学び方は、いつも単純に右肩上がりという訳ではなく、時には学んでいないように感じることがあるのが普通です。そう言う時に、第三者の目線って大切ですよね。自分が気づかずにおかしている間違いに気づいてくれる。ええ、成長してるよ、って言ってくれる場合もあります。自分で解決しようとする場合、ちょっと他の事をしてみたり、その事につい考えないようにしていると、しばらくすると「ああ、こんな事をしていたから先へ進めてないんだ。」って気づく場合もあります。  この質問者の場合については詳しくは分からないのですが、ちょっと目線を変えた療育にしてみるという手もあります。例えば、椅子に座らせて「あ」「い」等という五十音を模倣することを教えたのであれば、逆にそういったやり方を辞めて、例えばお菓子が欲しいときに、「ちょうだい(4音)」と言わせるとか、外に行きたい時に「ドア開けて(5音)」と言わせるとか、生活の中でだけ教えるというように、教育の方向性を変える事も良いかもしれません。え?それぐらいはもうやっているよ、って?これがやり方によって色々効果に差が出ます。例えば、上手い人がやれば遊びの中だけで、歌を歌って歌詞を言わせるとか、踊りを踊って「イエーイ」と言わせるとか、お笑い芸人のギャグの真似をさせるとか、遊んでるだけでかなりの音を出せるようになりますよ。もちろん子どもによってはそう簡単に遊びに乗ってこない子どもとか、椅子に座ってやる方が断然やる気があがる子もいるので、あくまでアイデアとして取ってください。  でも、毎日やってると何が良くて何が悪いのか自分では分からなくなる事もありますよ。似た

誤学習:教えようとするあまり

 誤学習とは、誤った行動を学んでしまったり、正しい行動が誤った状況で起こってしまうことです。教育しようとした側が意図しない結果になることです。例えば、何かしてもらった時に礼を言うことを子どもに教えたいとします。ごく普通の教え方としては、何かをあげる前に「ありがとうっ、て言って。」などと子どもに言いますよね。自閉症の子どもによくある誤学習は、「ありがとう」と言わずに、「ありがとう、って言って。」と文章全部を繰り返してしまう事です。他の例としては、「ごちそうさま」と言う事を教えたいのに、ご飯を食べ終わったあとに「ごちそうさま」じゃなくて「ありがとう」と言ってしまうなどです。「ありがとう」自体は誤った行動ではないのですが、言う状況が間違っている。これも良く見られます。  この程度の誤学習は比較的簡単に直す事ができます。例えば教える側が、「ありがとう、って言って。」と言わずに、「ありがとう」だけ言うようにする等です。しかし、長年かかって学習してしまった行動は、修正が難しいこともあります。ある学校で、こんな生徒がいました。その学校では、否応なしに子どもを椅子に座らせて勉強させる。子どもが嫌がって席を立とうとすると、連れ戻してきて座らせる。もちろん勉強ができれば、しっかり褒められてご褒美ももらえる。大部分の生徒は、最初は連れ戻されるから仕方なくやるけれど、徐々に褒められる喜びのために勉強するように変わって行き、逃げださなくなる。他の学校では学ばなかった子どもが、この学校ではしっかり学ぶようになることも多く、親から見てもこの学校に期待する度合いは大きい。しかしその生徒は残念ながら、しっかり褒められて学ぶ喜びよりも、逃げても連れ戻されるから仕方なくやっている方が強かったようなのです。体が大きくなるに連れて(中学生になるぐらいで)、抵抗すれば勉強しなくてよいことに気づいたのです。これまでは、逃げ出そうとすればすぐに席に連れ戻されていたけれど、床に寝そべって「うどん」のように体をしならせれば、もう大きくなった体は持ち上げられにくい。できたとしても、時間がかかるので勉強時間は減る。教室に入らずにドアの前で床にごろんとすれば、もう先生は引きずって席まで座るのは難しいので、勉強の時間が減る。色々有益な行動を教える予定が、予定外の「うどん」になる行動を教えてしまったわけです。こういった状態で

地域でする教育:ABA般化

 高校時代からの友達のエイちゃんとカフェに行きました。「カフェ」って言われて、「コーヒ屋さんのこと?」と思いつつ、そう言えば、テレビを騒がせたどっかの犯罪者も「猫カフェ」って言うのに行っていたなあとぼんやり思い出しました。ごはんも食べられたり、お酒が飲めるところもあるんですね。カフェだけを紹介した雑誌やブログもあるらしい。やあ、少しいないと日本も変わる(ああ、12年いなかったか)。そこのカフェは春日井市のベル何たらさん(すいません名前覚えてなくて)。経営者一人だけで注文取りから料理まですべてこなしていました。美味しかったですよ。小洒落た内装も個人でやられたのでしょう。私も個人経営しているから、そういう人がんばって欲しい。  ところで学校の先生をしているエイちゃん、生徒のお母さんに「挨拶運動はしないんですか」という声をかけられたと話していました。「挨拶運動」という言葉自体がなつかしい。私は、挨拶などの基本的な作法は家で教えるものと思いますが、家だけで挨拶を教えるよりは、地域が一体となって挨拶をもりあげる方が、家で挨拶する子どもではなく、家と地域両方で挨拶する子どもを育てられる。ABAではこういうの、「般化」っていいます。行動を色々な場所で起こるようにする。学校が躾作法の教育を手助け出来る良い例だと思います。  自閉症の教育にも地域の協力が本当に大切なんですが、自閉症児に対してどう接すれば良いのか、一般の人には分かりづらい。自閉症の子どもは顔が可愛かったりするもんだから、顔だけ見ていると健常児でわがままなだけに見えてしまうので、公園やスーパーで泣いてしまっていると、「躾が悪い」などと親が非難されてしまったりするんです。自閉症を知らないところから来ることなので仕方の無い事なんですが、協力どころか非難される経験があると、親も外に出づらくなってしまい、ますます自閉症児が地域で目に付かず、一般の理解はさらに深まらないという悪循環になりやすいんです。  私のアメリカの相談を受けた親からこんな話を聞きました。自閉症の子どもが、外出先のバス停でバスが遅れてきたためにパニックになって、周りの人から大ひんしゅくを受けた。周りの人に「私の子どもは自閉症で、特殊教育に行ってって」って説明してやったけれど、 理解は得られなかった。このお母さんは偉いですね。障害をちゃんと他の人に説明しよう

待つ力:欲しい物を待てる?

 今日アメリカの国土安全保障省に電話して、申請手続きに関する質問をしました。そういう所って、だいたい始めは機械が応答します。日本語に翻訳すると、「お電話ありがとうございます。○○の方は○番を、○○の方は○番を押してください。」といった感じで流れますので、番号を押して回答していきます。「お待ちいただきありがとうございます。電話をかけられた順番で応答します。申請書類の番号を用意してお待ちください。」といったアナウンスが流れつつ、このまま国際電話なのに30分も待たされました。結局のところ待てずに電話を切ってしまいました。それだけ待てば本当に腹立ちますよね。外国人だからって(国土安全保障省に電話するのは基本的に外国人)、そんなに待たせなくて良いですよね。日本の官公庁は最近ずいぶん親切になってきましたから(というか前から)、電話で30分以上待たされるという事はまずないと思います。  日本では官公庁でないところで、結構待たされます。電車とか、ラーメン屋とか、テーマパークとか。でも驚いた事に、みんな平気な顔で待ってますよね。両親と墓参りの帰りに、ついでだから近くの小さなテーマパークに寄りました。お昼を食べたかったのですが、どこのレストランからも「18組待ちです。」なんて言われて待つ気すらしません。肉まんやコロッケなどの軽食を買うのにも行列。しかも並んでない所に行ったら、「材料が亡くなってしまいました」とかで、待たずに食べるという選択肢がひとつもない。それでも、並んでいる人を見ると、どなたも別に平気そうなんです。驚くべき日本人。そんなに腹減ったまま待たされて大丈夫なのか?私的には暴動起こす寸前だったんですけど。日本人は行儀が良いということなんでしょうか。  自閉症や発達障害がある子どもの療育をすると、よく「この子は全然待てないんです。欲しいお菓子があればすぐに椅子に登ってでも棚から取ろうとするし、ダメだと言ってもその場では聞いたような顔をしているんですが、すぐにまた取りに行ったり。」という事を聞きます。「待つ」という行動を教えるにはどうしたら良いんでしょうか?残念ながら、人って待てないもんです。「待って」という指示に従うように教えられない事もないですが、言語が発達していない子どもの場合、基本的に教えられる待ち時間は短く、長くても一分とかが限界です。というのも、言語できちんと説明

ABA:消去

 自閉症の療育に関わらず、ABAは誤解される事本当に多いんですよ。色々誤解されやすいような専門用語もあるし、その考え方自体が分かりづらい場合もある。今回はその中で「消去」について触れて行きたいと思います。というのも、先日あるお母さんから、以下のようなアドバイスを聞いた事があると聞きました。「外出先で子どもが泣いてしまった時、絶対子どもの思い通りにやらせてはいけない。子どもの思い通りにやらせてしまうと、泣くという行動を将来的に増やしてしまう。どうせ泣いても30分くらいなのだから、泣かせておけば良い。」どう思います?理論的には正しいけれど、外出先という状況を考えるともっと良いでしょう。  理論的にちょっと説明しますね。例えばスーパーで買い物している時に、子どもが抱っこして欲しくて、泣くとしますよね。「泣く」という行動に焦点を置くと、親が抱っこする事で、行動の後に良い事があったのですから、将来的には抱っこして欲しければすぐに「泣く」ようになってしまう訳です。簡単に言えば、泣いたからと言ってすぐに抱っこする癖を付けているために、泣く行動がいつまでたってもなくならない。ではそれを変えるためには?泣いても抱っこしないようにする事で、その場一時的にはもっと泣くかもしれないけれど、将来的には徐々に泣かないようになっていく(泣く行動を消去できる)という事です。ただし、そう簡単に教科書通りに行くぐらいなら、コンサルタントはいらないですよね。  先に「外出先という状況を考える」と言いましたが、一般の人(子どもの事やABAの療育などを知らない人)が見ている状況で子どもを30分泣かせるのは、親の気持ちを考えると疑問に思えます。ある自閉症児を持つお母さんが以下のような話をしてくれました(実際の話です)。このお母さんの子どもは、スーパーに行って欲しい物があると、すぐに泣いてしまい、あまりに大きな声で泣きわめくため、どうしても子どもの欲しい物を買わざるを得ないと話しました。以前ABAを少し知っている方から、「スーパーで泣いても子どもの欲しい物をあげては行けない」と言うアドバイスを受けてそれに従ったところ、45分間子どもが泣き続け、泣いたあげくに(意図的に出はないが、かんしゃくの一部として)ワインのボトルを落として割ってしまった。店員さんを呼んで片付けようとしているのに、子どもは先に店を出ようと

日本の福祉制度に質問

 日本で生まれて、「自閉症の傾向があるのでは」と懸念された場合、一般的にはどういった流れで福祉のシステムが利用されるのでしょうか?私も自閉症の福祉制度を勉強するために、地元名古屋市や、愛知県のウェブサイトを見たり、自閉症に関連する施設に電話をかけてみました。電話に答えて、特に丁寧に説明くださった公務員の方、ありがとうございました。  まず、愛知県のウェブサイトで検索のところに「自閉症」とタイプすると、「あいち発達障害者支援センター」が出てきます。ウェブサイトによると、これは愛知県の春日井市にあって、愛知県コロニー「緑の家」という名前で発達に心配のある子どもとその家族が宿泊して(1泊、2泊、4泊5日など)、治療教育や発達検査を受けられるようです。ウェブサイトの内容も分かりやすい。ウェブサイトで自閉症と検索するとすぐにセンター名前が出てくるのですから、愛知県で自閉症と言えばここに行くのだろう、と率直な印象を受けました。  電話をかけてみると、応対はとっても丁寧。今思い返すと、一番先に電話をかけたここが、一番対応が良かったですね。丁寧に質問に答え説明してもらい、本当にありがとうございました。しかし丁寧な対応なのですが、愛知県の福祉の現状については、やや驚く事が多かったです。このようなやり取りです。 こうじ:「最近療育で起業したんですが、パンフレットをおかして頂けますか?」 担当の方:「多分良いんじゃないですか。ただ、ここは奥まった所だし、あまり人の目につきませんよ。」 (こうじ心の声:あまり人が来ないって?愛知県が全面に推しているのでは?) こうじ:「じゃあ自閉症児を持ったお母さん達はどこへ行って相談するんですか?児童相談所とかですか?」 担当の方:「そうですね、どこに行くんでしょうかね?親は保育園の先生、保健センター、児童相談所ということもあるかもしれません。保育センターでは子育て支援や親子教育などもあるので。」 (こうじ心の声:保育園の先生や保育センターでの子育て支援っていうことは、自閉症の専門でない方が主に相談にのるということ?) 担当の方:「自閉症の診断が必要かの判断もあるし。タイミングもあるので。流れの中で、取りあえず上手くやって行ける事もあるので。」 (こうじ心の声:え?診断が必要?日本では自閉症って、症状がある時に診断するのではなくて、「

教師の体罰その3

 前回から引き続いて、体罰についてコメントします。今回は科学的な専門家としての話ではなく、私の日本とアメリカでの経験を基に体罰の善し悪しについて、その背景にある日本の文化について語ります。  突然ですが私の父は体育会系(元警察官)で、体罰容認派ですね。彼の意見では、「叩かなければ危ない行為を繰り返すやつもいるからなあ。怪我をするくらいなら、叩かれてその前で済む方がましだと思うけどなあ。」「叩いたりする事を指導と受け取るか、体罰と受け取るか。ちょっと叩かれたぐらいで嫌になるなら、そんな態度ならスポーツなんて止めてしまえば良い。」 といった感じです。 私の母はやや中間派で、「子供によって受け取り方はそれぞれだから、こうじの様に気にしていつまででも覚えているような子にはやっては行けないし、いくら叩いても全然気にしない子供もいるから、子供に合わせなければいけない。」「優しくだけしていればコーチもなめられるし、中学生や高校生の指導は難しいか も。」なんて言っています。ちなみに根性のない文科系(文科系の皆様ごめんなさい)の私は体罰否定派です。やっても意味のない(良い効果が得られない)、しかも副作用もある体罰はやる意味がわからない。  父の話を聞くと、罰を受けて「危ない行為」を減らす方が怪我をするよりも良いのではないか、と言う所が特に説得力ありますよね。しかしこれも論理に落とし穴があります。「危ない行為」をよく聞くと、「ちんたらやっている」とか「気合いが足らない」とかなんです。「気合い」というのは目で見えませんから、「走るのが遅い」「声の出し方が小さい」等の行動で判断しますよね。では、「声が小さい」「ゆっくり走る」人は「怪我をする」のでしょうか?もちろんそんな因果関係はないのです。「気合いが入れば怪我が少ない」という事を信じた結果、「ゆっくり走る」「小さく声を出す」という直接には怪我に関係のない行動も許せなくなってしまったのかもしれません。ニュースで報道された柔道のコーチの話を聞いても、「朝トレーニングに遅れてきた時に、叩いた」と言っています。時間を守るって、柔道の技術に直接関係ないじゃないですか。父のように、「朝遅れて来る」→「気合いが足らない」→「怪我につながる」という論理になってしまったのかもしれません。もちろん大間違いの考え方と思います。  教育をする際は、危ない行

教師の体罰その2

 ここ一週間程度で学校における教師の体罰、柔道等のスポーツにおける体罰が新聞やニュースに連日のように取り上げられ、大きな話題になっています。体罰については皆様も色んな意見があると思います。私もこれまでにもブログの投稿でコメントしてきましたが(「罰」「教師の体罰、指示に従う事」)、せっかくの機会なのでさらに押し進めて行きたいと思います。行動を科学的に考える専門家の立場から体罰の効果について、それから体罰の背景となった日本の文化、価値観について、外国暮らしの長かった者の視点からコメントさせて頂きます。  まず行動の専門家の立場から、なるべく専門用語を使わないで話します。ここでは、「体罰を使う事が良いか、悪いか」といった価値観ではなく、「体罰を使うと行動の変化に効果があるか、ないか」ということから始めます。行動の科学という視点から罰の使用が研究され、その効果や副作用なども色々分かっています。罰を本当に簡単に説明すると(科学的には正確な説明でないのですが)、行動の後に何か嫌な事があって、その行動が起こりづらくなる事を言います。罰で行動の頻度を下げることは可能です。しかし、「罰」の投稿で例を挙げて説明しましたが、受けた側に対して副作用を起こす可能性がある使いづらい手法なのです。副作用としては以下の通りです。 恐怖反応(怖くなっちゃったり)や八つ当たりなどを起こす 罰を受けたその場面や、罰を与えた人を避けようとしてしまう 罰を出す人がいない時に、逆にその行動が増える (スピード違反などはカメラのある所だけスピードを落としますよね) 罰を使うという行動の見本を見せる(真似させてしまう) 代わりに何をしたら良いのかは教えられない 専門家がうまく使った場合にもこれだけ副作用があるのですから、専門家は安易に罰は使いません。ですから専門家は、罰を使って行動を減らすのではなく、代わりに副作用のない「強化」を使って望ましい行動を増やします。「強化」を簡単に言えば、正しい行動があった時に褒めたりして将来もっと起こるようにするのです。  ちなみに、上記の副作用は、罰が上手く使えた場合(減らしたい行動が減った時)にも起こりますが、下手に使った場合(行動が減らない時)にも起こります。私の専門家としての経験から言うと、上手く使っているつもりで実は上手く使えていない場合が多いのです。