教師の体罰その3

 前回から引き続いて、体罰についてコメントします。今回は科学的な専門家としての話ではなく、私の日本とアメリカでの経験を基に体罰の善し悪しについて、その背景にある日本の文化について語ります。
 突然ですが私の父は体育会系(元警察官)で、体罰容認派ですね。彼の意見では、「叩かなければ危ない行為を繰り返すやつもいるからなあ。怪我をするくらいなら、叩かれてその前で済む方がましだと思うけどなあ。」「叩いたりする事を指導と受け取るか、体罰と受け取るか。ちょっと叩かれたぐらいで嫌になるなら、そんな態度ならスポーツなんて止めてしまえば良い。」 といった感じです。 私の母はやや中間派で、「子供によって受け取り方はそれぞれだから、こうじの様に気にしていつまででも覚えているような子にはやっては行けないし、いくら叩いても全然気にしない子供もいるから、子供に合わせなければいけない。」「優しくだけしていればコーチもなめられるし、中学生や高校生の指導は難しいか も。」なんて言っています。ちなみに根性のない文科系(文科系の皆様ごめんなさい)の私は体罰否定派です。やっても意味のない(良い効果が得られない)、しかも副作用もある体罰はやる意味がわからない。
 父の話を聞くと、罰を受けて「危ない行為」を減らす方が怪我をするよりも良いのではないか、と言う所が特に説得力ありますよね。しかしこれも論理に落とし穴があります。「危ない行為」をよく聞くと、「ちんたらやっている」とか「気合いが足らない」とかなんです。「気合い」というのは目で見えませんから、「走るのが遅い」「声の出し方が小さい」等の行動で判断しますよね。では、「声が小さい」「ゆっくり走る」人は「怪我をする」のでしょうか?もちろんそんな因果関係はないのです。「気合いが入れば怪我が少ない」という事を信じた結果、「ゆっくり走る」「小さく声を出す」という直接には怪我に関係のない行動も許せなくなってしまったのかもしれません。ニュースで報道された柔道のコーチの話を聞いても、「朝トレーニングに遅れてきた時に、叩いた」と言っています。時間を守るって、柔道の技術に直接関係ないじゃないですか。父のように、「朝遅れて来る」→「気合いが足らない」→「怪我につながる」という論理になってしまったのかもしれません。もちろん大間違いの考え方と思います。
 教育をする際は、危ない行為を罰するのではなく、安全のためにやるべき行為を増やすことが重要になります。例えば姿勢の取り方や体の動かし方などの、「直接怪我につながるような姿勢(良い姿勢)」「安全にプレーするために必要な姿勢(良い姿勢)」が特定出来るのであれば、悪い姿勢をした時に罰をするのではなく、良い姿勢をした時に褒めてやれば良いのです。安全なスポーツを教えるなら、こういった直接関係のある行動にまず目を向けて、しっかり教育して欲しいものです。
 私も小学生の頃は学校で体罰を受けました。例えば、朝礼 の時に校長の話をきちんと聞いてなくて、手をもじもじしていたりすると、平手打ちをくらったり、部活でタラタラとおしゃべりしながら走っていると、頭を小突かれたりとかです。私の場合別に叩かれて他に悪影響があった訳ではありませんが、ただよく考えれば、驚く程どうでも良い行動に体罰が使われていますよね。校長の話がそんなに重要か?ちんたら走っていて、そんなに悪いか?大人になっても続けているような行動ですから、行動自体は大事ではないのだけれど、 指示には従ってないということなんでしょうね。簡単に言えば、「指示に従わなければ殴るぞ」ということですよね。生徒を力でねじ伏せようとしている。こういう教育の姿勢が問題ですね。
 「指示に従う」能力も重要な行動です。私からすれば、生徒が指導に従わないのは、指示が分かりづらかったり、指導に従った時に褒めてあげてないからです。そりゃ生徒だって人間だから、先生の指示に従ってすごく良かったという経験でもなければ、指示には従いませんよ。指導に従う事の良さ、大切さを経験させていないのです。生徒が指示に従わないと、「なめられたらいかん」という恐怖感がわいたり、自分の思い通りにならないことにイライラしたりして、かっとなって体罰を使っている先生もいるかもしれません。罰を使って指示に従えるように教えようと考えるのは、褒める努力を怠ろうとする怠慢さではないかと思います。
 テレビでも最近やっと日本の体罰を容認する姿勢が疑問視されてきました。良い傾向だと思います。現在でも先生が指導の一環として、平手打ちなどを当たり前のことのように使っている事がおかしいのです。さらに言えば、見る側もそれを容認してしまっているから被害者が減らないのです。ニュースを聞く限り、この現代においてもまだ体罰を教育委員会に報告しないとか、私の父ではありませんが、あっても良い事のように捉えられているような印象です。体罰をする側の「しっかり教育したい」という意図に合わせるのではなく、体罰を受け取る側の感じ方に合わせる必要があるのです。100人に一人でも1000人に一人でも、それが原因でずっと心に傷を負う事があるなら、止めるべきですよね。これは体罰だけでなく、口でする虐待も同じだと思います。いじめと同様、学校全体で容認しないという姿勢が必要なのです。
 スポーツ関係は熱が入るので、特に体罰が容認されやすいかもしれません。スポーツの熱に流されずに、受け取る側の気持ちに立った判断が重要という例を挙げます。アメリカにあるスポーツで有名な大学の監督がいて、その監督の活躍のおかげでチームが何度も勝利に導かれ、その功績が認められて監督の銅像まで建てられたのです。地域の英雄的存在です。しかしその後、チームのコーチが生徒に性的虐待をしていたことが発覚したのです。実は監督はその話をすでに知っていて、大学側に報告していたのですが、大学側がもみ消しました。監督は大学側に判断をゆだねたまま警察には通報せず、そのままにしてしまっていたために、さらに何人もの性的虐待の犠牲者が出たのです。もちろん虐待した人ともみ消した大学側が一番悪いのです。始めにこのニュースが出た時には、スポーツファンが大勢で集まって監督の事を擁護する意見を述べていました。監督はやっていないのですから。しかし、どうでしょう?性的虐待を受けた側から考えたら、見逃した人も同罪ですよね。一生残る傷を受けたのです。犠牲者が監督の息子や孫だったら、絶対に監督は警察に連絡しているはずです。警察に通報しなかった監督って、まだ英雄ですか?被害者の親の気持ちに立って考えなければ行けないんです。その後にその大学のスポーツの勝利も取り消しとなり、監督の功績もすべて取り消しになり、銅像も取り外されました。性的虐待の場合はその被害の深刻さが明らかかもしれませんが、心的苦悩はそれぞれですから、体罰でも、セクハラでも、いじめでも、嫌がらせでも、基本は同じです。「私は平気だったから、あなたもあれぐらい平気でしょう?」という論理は当てはまらないのです。平手打ちで生徒に怪我を負わせた先生が、教育委員会にも報告されていないなどとは、被害者の人権を完全無視しているとしか考えられません。
 でも、一体日本でどうしてこんな事になったんでしょう?日本人は我慢強いからですよね。スポーツでは、何となく我慢した人ほど強くなるような気がしません?つらく、苦しい事を我慢して成功した人は、楽しんで成功した人よりも、なんとなく美しいような気がしませんか?日本では我慢自体が美しいんです。アメリカ人だったら楽に成功した方が良いんです。我慢強いことが日本の成功にもつながったのでしょうが、体罰を容認してしまったという意味ではそれが逆効果になったのかもしれません。我慢しなくても良いんです。褒められて成功し、褒められて楽しくスポーツやって強くなれば良いんです。褒めて、褒めて、教育する事を学びましょう。

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