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自閉症の治療薬

 NHKのニュースで、「自閉症の初めての治療薬となるか」臨床試験が行われる事になったと報告されていました。今回報告された薬は「オキシトシン」と呼ばれるホルモンを鼻にスプレーして投薬するというもので、効果としては「顔の表情などから他人の気持ちを読み取るテストで効果があった」というコミュニケーション能力の改善ということだそうです。   自閉症の治療薬ができると良いですね。私は実際に研究の結果を読んでないので詳しい所はわかりませんが、上記のニュース情報だと残念ながら「自閉症を治す」というよりも、「自閉症の症状を改善する」という印象ですね。本当の所はどうなんでしょう?結果も含めて、女性の母乳を分泌するのに使われるホルモンがどうして自閉症の治療薬になるのか等、もっと詳しい情報が出ると良いですね。   ニュースによる自閉症の取り上げられ方というのは難しいですよね。今回も、「自閉症の患者は国内で120万人にのぼるが、根本的な治療法はない。研究グループは再来年までに結果をまとめ・・・」とありましたが、このニュースの流れを聞くと、「自閉症には何もすることができない。この薬が根本的な治療法になる可能性がある。」というようにも聞こえなくもないので、本当に止めて頂きたい。  この薬の効果は別として、療育による効果は研究によってずいぶん前から明らかになっていることです。「コミュニケーション力を改善させる」治療教育の効果的な方法は、現在もどんどん研究として出されています。それどころか、早期に療育を始めた場合にはIQが20とか上がる場合もあるということまで研究で出ているのに、「根本的な治療はない」で済まされて良いとは思えないからです。  なぜ、療育の効果は報告されないんでしょうか?ABAの研究方法が他の分野と違う場合が多い、ということもあるでしょう。また、医学会が、心理・教育会よりも資金力も政治力も断然に大きいことも、もしかしたらニュースに与える影響の違いに出ているかもしれません(ABAは心理・教育の中でも異端児扱いされることもあるそうですからね)。日本に専門家が非常に少ないことも、影響しているでしょう。皆様に良さが知ってもらえるような上手いコミュニケーション力、分野を超えた臨床家同士の横の連携力なども含め、私たち専門家が改善していくことも必要かもしれませんね。

会話のスキル

 先日久しぶりに献血をして来ました。私献血好きなんです、と言ってもやはり年に何度も行けませんね。やはりそれなりに時間に余裕がないとできない。体力的にもある程度余裕がないと行けない。言って気づきました。あまり余裕のない生活を送っていたんですね・・・とほほ。この余裕を感じにいっているのかもしれない。でも献血すると何となく人のためになった気がしません?特に夏休みなんかは事故等が多いから、絶対血が足らなくて困っている人がいるはずです。しかも献血ルームって奇麗な所ありますよね。色々ただでジュースとかもらえるし。高校生のときは、「ただ」のお菓子やジュースをもらいに友達と献血に行っていました。行くたびに色んな新しいシステムが導入されていて、感心します。今回は、席の準備ができるとピーピーって機械がなって知らせるというシステムが導入されていました。レストランの席待ちみたいな感じですね。こういう色々なシステムがあるのは良いのですが、ベルトコンベアー式で色々な検査を通り抜けるので、次の人に会うたびに「名前、生年月日、血液型」と聞かれるのはイヤですね。まあ血液に間違いがあっては行けないので当たり前なのですが、やはり大きな声で生年月日を言う、しかも繰り返すのが嫌な年齢になりましたね。 やだやだ。  繰り返すと言えば、自閉傾向がありながらも言葉をよく話すようになった子どもで、よく言われることなのですが、「同じことを何度も繰り返してしまう。その場にそぐわなくても、言ってしまう。」ということです。これは、非常に複雑な問題だと思いますが、今回は果敢にチャレンジしてみます。 これは、会話の技術という事以上にまず、会話の動機が絡んで来るからだと思います。会話をするということは、以下の二つの動機が必要だと思います。 動機1:相手(聞き手)の注意を引きたい。 動機2:話したい内容がある(共有したい経験、思い出したい経験がある)。  「同じ事を繰り返してしまう」というのは、もしかしたら、相手の注意を引きたいと言う動機1はあっても、話す内容がないという動機の2が不十分である(話す内容が一つしか思いつかない)のかもしれません。逆に話したい内容があっても、相手の注意を引きたい動機がなければ、会話ではなく独り言を繰り返すことになるかもしれません。やはり、どちらが欠けていてもだめなのでしょう。動機が絡んでいると

問題行動(癇癪):要求が通ることとの反比例

 教室の時間の合間におやつ代わりにゆで卵を食べようと思いました。冷蔵庫に入っていたから、やっぱりちょっと暖めようかな。電子レンジでゆで卵を暖めると、爆発するって聞いたことあります?怖いですよね。でも、ちょっとだけなら大丈夫かな。少しだけ暖めて・・・、ほら、やっぱりちょっとなら爆発しなかった。レンジを開けて手に取ると、お、ちゃんと暖まってる。いっただきまーす。ばん!風船が割れるくらいの音がしましたかね。何が起こったの?手のひらにあるはずの卵は跡形もなく、卵の細かな残骸が床や壁に散らばっています。しかも卵の飛び散り方が半端じゃなくって、まさに爆発。部屋中にゆで卵の小片がばらまかれました。後から見ると部屋の反対側の壁にまでゆで卵の破片がついています。鏡を見ると髪の毛や服にも一杯ついてる。もしかすると、ちょっと目に入ったかもしれない。こんなことで失明しなくて良かった。ああ、生徒来るから片付けなきゃ。しかもぞうきんで床を拭くと、黄身が床のフローリングの板の隙間に入る!ああ、そんな所は・・・。あとで臭くなったら絶対やだ。せっかくの短い休憩時間、エネルギーチャージしてゆったりする予定だったのに、これでその時間も掃除に終わる・・・。とほほ。しかしこの歳になってこんなにビックリすることあるか?というぐらい驚きましたよ。本当に漫画みたいなことってあるんですね。  爆発と言えば(相変わらずなんでも自閉症につなげる)よく癇癪起こす子っていますよね。それから小さなことでもすぐに、「うきー!」ってなってしまう子。例えばオモチャで遊んでた所に、お父さんがアイスクリームを買って帰ってきて、見た瞬間それに向かって走って行って、手を伸ばすとするじゃないですか。オモチャ持ったままの手でアイス食べようとしてアイスを落としちゃかわいそうなので、「ちょっと、オモチャもったままの手で。」と言うと、「うきー!」と床にひっくり返る。食べるなって言われた訳でもないのに、この反応は一体何だ。お前は猿か?せっかく好きだと思って、楽しい経験を多い浮かべて買って来たアイスクリームなのに、一気にこれで30分も泣き通す。こんなことって、結構ありますよ。  こういうように、一触即発ですぐに癇癪を起こす子や、物を投げる子、「イヤ!」等と叫ぶ子というのは、思い通りに事が運ばない、自分のやりたいことが言えてない、言わば「食べたい物が

社交性スキル:子ども同士のコミュニケーション

 私は名古屋隣にある清須市という所に古民家を借りて教室に使っているのですが、そこは昔の美濃路という街道で町並みも古く、良い感じで気に入っています。名古屋駅から6−7分で電車に乗ればついてしまうのにコンビニもなく、逆に昔からの和菓子屋さんなどの個人商店がぽつぽつと見られます。近所の酒屋も例に洩れず、古くからある個人商店のようで、店番のお婆ちゃんも年期が入っています。教室にお客様が来る時にそこの酒屋でペットボトルのお茶を買いました。領収書を頼んだところ、領収書の宛名をさしてお婆ちゃんがこう言いました。「きゃーとーてちょーでゃー。」私の頭の中では「?」が飛んでいました。「きゃーとーてちょーでゃー」とは、一体何?名古屋生まれの私でもさすがに3秒くらいかかりましたかね、これを翻訳することができました。「(値段は書いたけれど、宛名の部分は空欄にしておくのでご自分で)書いといてちょうだい。」という意味でした。分かった時は、「よっしゃー!」と何か事件を解決した気分でテンションが上がりましたね。そんな名古屋弁で話す人には会った事がありません。というか、名古屋で生まれ育った人でも意味が分からないような名古屋弁が存在することは驚きでした。コミュニケーションとは、面白いものです。  自閉症の子どもには、大人には色々と要求をしたり返事をしたりもするのに、子ども相手には話しかけることもなく、話しかけてもしれーっと無視することが多いのです。子ども同士で話すようになって欲しいとは思うのですが、これはかなりの難題であることも多いです。あるお母さんから、「(自閉症児が自分の)弟の持っている物が欲しい時に、かして、って言えるのだけれど、ダメと返答されると、かして!って強く言いながら奪い取る。もしかしたら、幼稚園でも同じ様に人から奪っているかもしれない。どうしたら良いんですか?」と相談を受けました。子ども相手では、「かして」とお願いしたからと言って、もらえるとは限らないんです。「かして」という要求自体が消去されてしまう(言ってももらえないから、言わなくなる)ケースもかなり多く、こういう経験を通して自閉症児は、子ども相手には要求しなくなるんでしょうね。   上手でないソーシャルトレーニングを受けると、何でも単純にパターン化してしまいます。例えば、「断られたら、一分程待ってから、もう一回聞けば良い。」とい

ABA: PRとNET

 しばらくぶりの再開です。いやあ、やはりブログを書くのは楽しいですね。最近療育やプライベートの方が色々と時間を取られまして、特別に締め切りがないブログはついつい後回しになってしまいますね。今回はリクエストに応えて「PRTとNETの違いは何なの?」という質問に答える内容になっています。まあめげずに少しずつでもやっていきます。  全然関係ないですが、どなたか新幹線移動の時に車酔いせずに仕事をする良い方法分かる人います?私は元々車酔いするタイプなのですが、やっと最近本読んだり、携帯のメールぐらいは大丈夫になってきているのですが、やはりブログを書いたり、翻訳の作業をしたり、コンピューターを使う作業は気分が悪くなります。特にトンネルがダメですね。入ったり出たりする度に揺れて、「うっ」と来ます。新幹線移動であまり寝られず、仕事もできず、ビールも飲めず、結局携帯でゲームして終わるのももったいない気もしますよね。本でも読めば良いのか。  さて、質問の違いですが、簡単に言うとABA > NET > PRTということになります。ABAの一部にNET (Natural Environmental Training)があって、その一部にPRT (Pivotal Response Training)というのがあります。NETというのは、DTT (Discrete Trial Training)に対比しての言葉ですが、デスクでのセラピーに対比して、自然環境で教えれば基本NETということになります。PRTもその一部ですが、他にも、Incidental TeachingとかMilieu Trainingとかも言うのもあります。PRTは中でも研究も多く、有名ですのでよく聞くと思います。研究でその効果が証明されているので、私のようなABAの博士にはその研究論文を読んで結果を追試出来る立場にあります。しかし、同時に登録商標でもあるので、PRTという療育方法について特別トレーニング受けたことのない私には、PRTについてはっきりとトーレーニングできるとは言えないという、イマイチビミョーな感じになります。ちなみにPECSも同様の登録商標ですが、作られているピラミッド社認定のトレーニングを私は受けたので、「使える」と公言できる立場にあります。アメリカは面白いですね。  PRTについてですが、私

基軸となる行動:Executive Functioningその2

 外に出たついでにスーパーに買い物によりました。買い物は特に予定していなかったのですが、漂白剤やらお菓子やら卵やら、思ったよりも買ってしまうものです。こういう時に限って妙に混雑していてレジには列ができています。レジで払い終わって袋詰めにするカウンターにかごを置いてから気づきました。あれ?袋がありません。またか。やはり買い物をしようと思って出かけないと、私は買い物袋とかよく忘れます。前回も忘れました。前回は人が少なくて、レジの人に後から言って5円で袋を買いました。5円で買えるなら、なぜ支払いする時に袋がいるかどうか聞いてくれなかったんだ?最近は袋持参が常識なのだろうか?しかも今日はすごい人が並んでいて、レジの人に今さら袋を買いたいことが言いにくい。車に行けば袋もあるのだけれど、荷物を置いて車に行くのも面倒くさい。しょうがないので、手に全部抱えて車まで行くことにしました。ちょっと無理かな?手にも小さなものをごちゃごちゃ抱えて、色んなものをジャンバーのポケットに詰めて、これじゃなんだか下手な万引きだよ。誰かに見られてないかな?でもこれくらい持てるよ。よし・・・ガシャ。卵を落としました。あーあ。よりによって落とすのは卵。ついてない。ただでさえ万引きおじさんみたいにポケットに色々詰め込んでいるので、人からの注目を受けたくない。床を汚してしまいましたが、拭くものもない。うーん、どうしよう?買ったものを捨ててその場からいなくなりたい。  こんなことありません?私だけ?トロいですよね。とほほ。 ちなみにしばらくすると店員さんがやってきて、床を拭いてくれて、しかも、卵を替えてくれると言います。「え?良いんですか?」ちょっと嬉しそうな図々しい私。店員さんは嫌そうな顔も見せずに卵を取りに走りました。何て親切な人なんでしょう。世の中いい人ばかりですね。替えてもらった卵を手に、何とかジャンバーにもっと色々詰めて(やっぱり懲りてない私)、やっと車までたどり着きました。ああ、串カツのいいにおい。そうか。途中で入り口で売ってた串カツが気になってたから、ぼんやりして袋を忘れて卵なんか落としたのか。そして親切な人の助けによって、トロい私は今日も一日を乗り越えました。トロくても生きて行けるものです。もちろん串カツもゲットしました。(ブログネタもゲットしたし・・・。)  高機能の自閉症の子とか、アスペ

自閉症症状(スクロール)と老化現象(思い込み)

 おじいちゃんを助手席にのせていて運転していると、こんなことがありました。交差点で信号待ち中ぼんやりしていると、おじいちゃんから青だから進めと言われました。「またぼんやりしていて信号に気づかなかったか」と思い発進しかけましたが、よく信号を見ると信号はまだ赤なんです。「ええ?あれ赤じゃない?」と言ってもおじいちゃんは「おう。進める。」と自信満々に言っています。「赤だよね。」と祖母に確認すると、やはり赤だと言ってくれました。そのうちに信号は青になって渡れたのですが、おじいちゃんはすっかり青だと思い込んでしまっていたようなのです。年取って来ると、こういう思い込みってよくありますよね。  私の勝手な(専門的でない)分析を加えるとすれば、生活に変化が少なくなってやったことの繰り返しが増えると、これまで通りなのであまり注意したり頭の中で準備・整理したりしてやることなく、言わば「自動的」に繰り返すようになります。変化の少ない生活の中で、「これまでの経験と同じになるだろう」的に行動することを続けると、状況の変化に注意を向けたり、変化に合わせてしっかり反応することが弱くなります。これが老化の始まりというものじゃないでしょうか?  しかもこうやって「自動的」に行動していると、あまり使われない脳が他に刺激を求めているせいか、頭の中で過去のことを思い出したりしてしまうのではないでしょうか?最初からよく観察して行動していないのに加えて、頭では他事を考えているのですから、余計にぼんやりしてしまう訳です。  さらに言えば、よく見てないだけではなく過去の行動パターンに「凝り固まる」ような印象を受けます。思い込んでしまったことから柔軟に抜け出せず同じ間違いを繰り返したり、「よく見れば間違いにすぐに気がつくのに・・・・」という結果になります。例えば探し物をする際も、「過去に物がみつかった場所」を何度も探すだけで、実際には目の前にある物が見つからなかったり、「もうバッグの中は探した(バッグの中にはない)」と思い込んでいるので探さなかったりします。自分ではしっかり探しているつもりですから、もちろん見つからないことに苛立ちます。  実を言うと私も先日仕事のレポートをすっかり忘れました。しかも、本人はすっかり書いたつもりになっていたので、生徒さんの親御さんから聞かれた時に、「あれ?書いて送りましたよ。

私の子どもって成長しているのでしょうか?

 「私の子ども、成長しているのでしょうか?」これは私のところに療育に通って来てくれている親御さんからよく聞かれます。面白いことに、いい具合で成長されているお子さんのお母さんからよく聞かれます。療育の会話の中で、「良いですね。成長していますね。」と言うと、「え?全然成長していないと思ったのだけれど、先生がそう言うのならそうなんでしょうね。」と言われるお母さんも結構多いです。私的には、「マジですか?こんなに成長しているのに、見えませんか?」と感じます。しかし親からすると自分の子どもの成長というのは、非常に気づきづらいものらしいのです。反対に自分の子ではなく他の子どものこととなると、かなりの成長ぶりが見えるようです。私の教室の場合は大体もう一人他のお子さんとセットで来てもらっているのですが。「○○君すっごい変りましたね。」「何々ちゃんすごい成長しましたね。」と相手のお子さんの成長ぶりはよく気づかれますから、ポジティブなことが分からない親御さん達では決してありません。しかし自分の子どもとなると「成長していない」と感じる様なのです。  ちょっと余談になりますがこれには国民性も関係しているかと思います。アメリカでは、療育した側から見て成長が比較的大きくなかった場合でも、「すごく成長した」と喜んでくれるご両親もいましたし、成長していても「成長していない」と感じられる両親もいました。「成長していない」とおっしゃられるお母さん方は大抵「優等生系」のお母さん方です。私の指導することをしっかり家庭でも守って療育してくれています。ですからもちろん成果も上がり易く、素晴らしいのです。ですが反面「優等生系」の悩みとしては、頑張っても頑張っても「まだ頑張りが足らない」と感じてしまうことです。私の恩師のマロット先生は、こういったことを、「Jewish mother(ユダヤのお母さん)」と説明していました。私はユダヤ教についてはあまり知らないのですが、子どもの頃にどんなに頑張っても「まだ頑張れる」と母親に言われて育ったため、大人になった時にどんなに頑張っても何となく自分自身で満足出来ない状態を言うようです。頑張り屋さんに育つのも苦労がいるということでしょう。アメリカが成功したのは、戦争でユダヤ教の人がヨーロッパからたくさん移住したからなんて言う人もいますよね。「ユダヤ教も日本と同じなんだ。」と思い

言語の発達

 コーヒー屋さんにいると、隣に外国人が座りました。しばらくすると待ち合わせをしていたようで、 日本人の女性が向かいに座りました。友達かなあと思っていると、外国人男性はどうも他人行儀な質問ばかり投げかけています。お気づきかもしれませんが、盗み聞き、ちょっとだけ好きです(内緒です)。「Do you get along with your family?」と質問されて日本人女性は困惑していました。「家族と仲良くやってる?」っぽい意味なのですが、男性の方も「Good relationship」と始めは言い換えたり説明しようとしていましたが、結局「忘れた?」なんて日本語で言ってノートを確認させ始めました。ああ、英語の先生だから質問ばかりしているんですね。最近は英会話のレッスンもコーヒー屋さんで行う時代ですか。しかし英語を学ぶって本当に大変ですよね。私もアメリカ留学前は、英会話の先生から色々質問されて、さっぱりでした。「全然聞き取れない」「単語が聞こえても知らない」「そのイディオム、聞いたけど忘れた」という連続ですよね。なんか悔しいですよね。ポジティブに頑張って学んでいるのにも関わらず、この「負けた」感というか、「できない」感というか。何となく昔感じた気持ちがよみがえって、生徒さんの手助けをしたくなってきました。でも、こういう感情を持つから、英会話やって挫折するんでしょうね。その言語で育てば誰でも喋れるはずなのに、育ってから学ぼうとするとその労力は半端じゃないですよ。  言語って、一体何なんでしょう?考えたことありますか?ABAでは、必ず機能(なぜ起こるのか)に焦点を置いて考えます。人が行動する理由は、人にとって得になるからだということです。食べれば栄養が得られるので、人は食べます。動くものをよけなければぶつかってしまうので、人はよけます。歩けば自分の好きな物や活動に近づくことができるので、人は歩きます。こうやってそれぞれの個人の得になる行動を人は徐々に覚えていきます。言語はこういった観点からすれば何か他の行動と違うのでしょうか?ABAの創始者と言われるスキナーは行動を考える際、(簡易バージョンですが)「人を媒介にして好子・強化子を得る行動(人を使って得をする行動)」と定義しました。行動自体が個人の得になる行動と違って、言語は他の人を使って好きな物を運んで来る、もしくは他の