小さな問題解決

 先日牛丼が食べたくなりました。松屋さんと吉野家さんがあって、松屋さんの方に行ったんですけど、何故かドアが開かないんです。ガラスの向こうにお客さんが牛丼食べている様子が見えるけれど、何故か自動ドアが開かなくて私は入れない。最近の自動ドアって、ちょっと触ったりしないと開かないようになっているのってあるじゃないですか?そういうのだと思ってボタンを探してガラスを触っていると、なんだか一人でパントマイムしているようで、非常に恥ずかしい。もしかしてドアが違うのかと思って、立ち去るふりをして周りを歩いて行っても、他にはドアが見つからない。恥ずかしくなって結局吉野家さんにしました。もちろん、「ここに入りたかったわけじゃないんだ」、というような演技で立ち去りましたけど。吉野家さんは良いですよ。中に入れる。牛丼屋さんに入れないのって、もしかして私だけでしょうか・・・。
 人生ってこういうことですよね。毎日色んな問題がある(私だけかも)。でも、療育では私はわざと「もしかしたらこんな言葉はしらないかも」という言葉を使ってみます。知らないことを言われてどうするのか?それが普通の生活に近いと思います。人の言っていることがすべて分かる子どもっていないじゃないですか?あまりに言葉を子どもに合わせてしまうと、学校や他の場面でそういう普通の問題に打ち当たってパニクったり、問題行動を起こしたりしかねません。(療育の最初の場面では子どもが分かるように言葉を選択するので注意!その後徐々に切り替えていきます。)
 それから「消去」のところで少し話しましたが、子どもが問題にぶつかった時にも、「わからないねえ。難しいねえ。」などと共感するようなことを言っても、答えをすぐに教えません。すぐに答えを教えてしまっては、「そういう場面に色々なことを試してみる」という大切な行動が学べません。外国に行った時を考えれば、相手に自分の言いたいことが言えないですよね。その時に、黙っていたら分からないじゃないですか?何か色々、間違っていても、ジェスチャーでも何かした方が、意思が伝わる可能性が高い。何もしなければ、問題行動を起こしていれば、可能性はゼロです。私も松屋の牛丼は食べられなかったけれど、吉野家のは食べられた!それで良いじゃないですか。小さな問題解決。こういう小さな問題を解決出来る場面を一日何度もします。障害がある子どもだと、逆に「できないから」と勝手にこちらが答えをすぐに教えてしまう場合が多いです。それでは「何かトライしてみる」という行動は学べません。
 さらに、ここからは私の個人的な経験からですが、言葉が出来る子には、言葉の使い方も教えます。私たちって言葉で、「もしかしたら、ボタンがあって、押せばドアが開くのでは?」等と考えながら色々な方法を試します。そういう自問自答のような言葉の使い方も、徐々に出来るように教えていくので、「できないね。じゃあ周りをみてみようか。」「こっちがだめなら、他にはやり方ないかな?」等と言う言葉をプロンプトします。 言葉で間をつなぐと、すぐに諦めずにちょっと色々試すような行動にもつながり易い気がします。

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