モンスターペアレントと言論の自由:学校教育に親が物申すこと

  「おいしい給食」と言うドラマを見ました。俳優の市原さんがメチャメチャ良い味出してるドラマですね。ドラマ自体はエンターテイメントとして見てて面白いと思うのですが、学校給食って私は良い思い出がありません。私の場合好き嫌いはあまりない方で、給食が食べられずに困った思い出はないです。また、無理矢理食べさせられたような記憶もない。でも、単純に給食が美味しかった記憶がない。美味しくないけれど、仕方のないもの…給食はそういうイメージでした。

 でもこのドラマ、おいしい…給食?給食に美味しいという形容詞、つけて良かったかしら?皆さんは学校給食、好きでしたか?私が見たドラマのエピソードは、「ソフトメン」と呼ばれるビニール袋に入った細めのうどんのような麺が取り上げられていました。このソフト麺をカレーとか、その他からめるタイプの具材と一緒に食べるのですが、ドラマではこれが「給食の4番バッター」のような表現で颯爽と登場し、皆が嬉しそうにこの麺をすする。驚きました。ええ!?これこそが、学校給食の私の記憶の中では、特に美味しくないもの、かつ頻繁に出てきて嫌なものと位置付けられていたものでした。ドラマの中でも袋の上から手で4等分するシーンがありましたが、ソフト麺なので手でもフォークでも簡単にブツブツ切れる。別に味付けがついている麺ではないのですが、歯応えのない食感なのか、小麦の味なのか、なんだか分からないけど、すごく美味しくない。でも確かに、特に文句言っている人も聞いたこともない。やっぱり、そう思っているのは、私だけですかね?あの美味しくないものが、世の中では「給食の4番バッター」等ともてはやされている?4番バッターって、スター選手ってことですよね。給食のハイライト。私にはそんなこと言う意味がわからない。嫌いなのは私だけ…やっぱり私の意見はマイノリティー(少数派)か…と思いました。だから友達少ないのか…。

 こういう「ええ?私だけ?」と言う気持ち、実は、特別支援の生徒を持つ保護者は、学校でよく感じる気持ちなんです。支援の必要な子どもって、当たり前ですが少数派です。基本的にみんなと一緒のやり方で学んだり、みんなと一緒に行動することが難しい。でも、日本の学校教育は大多数に合わせようとする社会的な圧力が強い。極端に言うと、大多数はの人のやりたいことは「普通」と呼ばれ、少数派のやりたいことは「わがまま」と呼ばれる傾向があるのです。私だけわがまま言えないから…。少数派の私だけが我慢すれば良いから…と涙を流しながら言いたいことを言わない親が、どれだけ多いことか。

 例えば食物アレルギー。私の住んでいる愛知県清須市の小学校では、アレルギーで給食が食べられない人は、保護者がお弁当を作って持たせることになっています。公立の学校の給食がアレルギー対応していないって言う時点で欧米ではアウトです。十分に食べさせられない家庭だった世の中にはあり、アレルギーだからといって学校で食べられないなんて、公立学校としてはあるまじき対応です。まあ、対応できないところまでは、譲るとしよう。でもつい最近まで、その持たせるお弁当の内容を、他の生徒の給食に合わせて欲しいと保護者が学校側に要求されていたそうなんです。給食がカレーの時は、カレーっぽいもの。餃子の時は餃子っぽいものを。はあ?なんで?他の子が羨ましがるから、ですって。もはや理解不可能です。何を言っている?おかしくないですか?この感覚。給食を食べられる多数派に、少数派は食べられないだけでなく、持参する弁当まで合わせることを平気な顔で学校の先生から要求されるのです。毎日泣きながら給食に合わせたお弁当を作り続けた保護者がきっといたでしょう。おかしいって、なぜ誰も指摘しなかったのでしょう?できない雰囲気があるからです。

 他にも例はあります。iPadのようなタブレットにPECS等のコミュニケーションのアプリが入っていて、口で話せない代わりに、アプリでコミュニケーションを取る生徒がいます。その生徒に対して、他の生徒がタブレットを見て羨ましがるから、学校でタブレットの使用を禁止しますと言われた保護者がいます。これこそ、教育者としてあるまじき発言ですよね。はあ?頭おかしいんじゃないの?と保護者の代わりに言ってあげたい。コミュニケーションのアプリを禁止することは、話せない子にとって「黙れ」と言われるようなものです。学校の先生からタブレット禁止を伝えられた時に、「ええ?何言ってるの?それ、おかしいと思うの、私だけ?」と保護者は何度自問自答したことでしょう。でも、先生にはっきりとそれがおかしいと言える親が果たして何割いるでしょうか?きっと数%じゃないでしょうか?たとえ他の子が羨ましがったとしても、子どもに必要なことを必要だと言える親は、モンスターペアレント扱いしてはいけないのです。こんな時代錯誤が起こってしまうことが恥ずかしいことなのです。例えばメガネをするのに「他の子が羨ましがるから」と断れるケースはないですよね?それは、メガネが多数派になってきて、どうして必要なのかを皆知っているからです。特別支援はそういう知られている障害ばかりではないのです。障害の内容があまり知られていないことで、こんな苦しい思いを強いられるのは、もう終わりにして欲しい。少数派の意見に耳を傾ける姿勢を社会全体で作る必要があるのです。

 欧米のような個人主義が発展しているところで、例えば車椅子の生徒が学校に入学したら、段差のあるところにスロープが作られると言った、少数の人にも優しいバリアフリー精神が生まれました。「出る杭は打たれる」日本の文化では、教員全体にも、保護者全般にも、バリアフリーはあまり浸透してはいない。「スロープまで作らなくても良いんじゃない?入りたければ、手伝ってあげるよ」と言う意見は、表面上もっともらしい優しさがありますよね。でも要は、少数派の意見は同じように重要ではなく、多数派が上から目線で「手伝ってあげる」と言う世の中なのです。みんなが楽しく生活する場が学校なのですから、できる限りどの子も自分の意思で人に頼らずに生活できる場を作るのが、当たり前なのだと、皆が意識を高めて欲しい。自分も少数派になった時に、初めて気づくのです。そう言う社会を作ってきて良かったと。

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