学校教育と自殺、多様性の教育へ

  今週私の担当する大学の授業は、自殺問題でした。教育大学での授業ですから、将来学校の先生になられる生徒さんも多いです。まず新聞記事を読んで、学校の担任の先生の注意叱責がきっかけとなり生徒が突発的に自殺したと言うケースから授業を始めると、生徒さんも真剣に話を聞いていました。学校の先生になるって何て大変なことでしょう?先生の「良かれ」と思ってした指導がきっかけとなり、多感な時期の生徒を自殺に追い込んでしまうこともあるのです。それぐらい責任の重い仕事です。みんな良い先生に育って欲しいと切に願う。ちなみに日本の子供の自殺率、先進国中一番高く、病気よりも多く一番の死亡理由が自殺だってご存知でした?自殺率の圧倒的に高い日本、どんな教育制度なんでしょうね。

 気になるのは、世の中の変化に学校がついていっていないと感じることが多いこと。うちの教室のハーフの生徒さん、お父さんはオランダ人なので「世界一」と言われる教育を受けて育っています。自身の子供の参加する日本の軍隊式の運動会を見て、「日本はすごいね」と皮肉っぽく笑われてしまったようです。みんなが右向けば右を向く、軍隊のように行進し、参加しない時間も「応援しなさい」と叱られる。多様性が叫ばれる現代にあって、そんな昭和な運動会がまだ存在して良いのでしょうか?無理に競争させられて、みんな一様に行動することを強制させられて、これでは多様な社会を生き抜く人材を育てることができないと思います。

 引きこもりや不登校も、こういった「みんな一緒でなければいけない」無言の圧力が大きな理由になっているのではないでしょうか?特に私の教室に来られるような発達障害のある生徒たちは、皆と同じようには行動できないことが圧倒的に多い。「一緒の行動をする」と言う意味では圧倒的に外れてしまうわけです。私もアメリカに行ってるぐらいだから、かなり日本の標準行動からは外れているタイプ。幼稚園に土足で入って「土足で入る先生」と噂されていたことも。でも活躍できるところもあるんです。人と違うと言うことは、悪いことではない。要は、そう言う人であっても、活躍できる社会が必要なんです。ちょっと他の人と違うからと言って問題児扱いされる環境自体が問題だと思います。

 多様性のある学校では統率がつかない?そんなことはないのです。私はよく「みんな頑張る」と言う目標を使います。みんな「それぞれのレベルで」頑張れば、別にみんなが同じ目標で頑張る必要はないのです。例えばADHDの子どもが座っていられなかったり、自閉系の子供が突然勝手なことを話し出してしまったり。ADHDの子どもなら、その子が10分座るのは、定型発達の子どもが50分座るよりも、よほど頑張っている可能性が高いのです。その子は10分経ったら少し席を立って、何が悪いですか?自閉の子供が時々突然話し始めて、「それが普通」として、何が悪いですか?定型発達の子がずっと黙っているのと、その子が10分黙っているのと、その子の方がよっぽど頑張っている可能性だった高いのです。時々専門家として、「この子を座らせて欲しい」と言うような要望を受けることもあります。でも、本人ではなく逆に環境が悪いこともあるのです。皆がそれぞれの特性を理解する、それぞれのレベルで頑張る、こういった教育環境が必要なのです。

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