教育には積極的な自発の行動を目標に

  今、山崎豊子の「大地の子」を読んでいます。すごい熱量の本ですね。最初の1冊目はもう生々しすぎて、とても読んでいられない地獄絵図。なのに、何故か目が離せない、本が置けない。多くの小説は登場人物の会話の度に改行されて、文字が印刷されていない部分が結構多いのですよね。次々とページをめくって先に行ける。比較して「大地の子」は、こんなにドロドロした内容でも中々先に進めない歯痒さが、たまらない。

 ふと気づくと、やっと小説が読める余裕ができたんだなあと。子どもが小さいと、どうしても自分の時間がないじゃないですか。ちょっとテレビを見るといった受け身の(見ているだけで自分では行動しない)時間は取れても、読むという積極的な行動が必要な時間は難しい。というか疲れ過ぎていて、何か行動をする労力が残されていない。私の子どもが少しずつ大きく成長してきて小学生になり、これだけの労力を要する本を読むまで体力が回復してきたなあと、しみじみ思いました。

 「積極的な行動をさせる」ということは、ABAをしていると非常に大切な部分になります。逆に、一般的な教育ではあまり重要視されないことが多い。例えば従来の教育では、先生が一方的にお話をしているのを、生徒は大人しく聞いていることが多かった。聞いていた内容を、本当に理解していますか?確認できないのです。先生が黒板に書いて、それを板書することがあれば、生徒は積極的に書き写す行動をしているので、聞いているだけよりは良いです。ただし、黒板を書き写すだけでは、書き写した内容を本当に理解しているかは確認できません。結局テストをすれば、テストの問題に答えられる生徒もいるし、答えられない生徒もいて、ばらつきが生じる。

 それでは「理解した」とはどういう意味でしょう?頭の中の状態ですよね。テストのような問題を解かせることも1つの行動ですし、発言させることも1つの行動ですし、何らかの形で行動をさせて、いわば頭での理解を言葉や行動に表現して初めて、それが確認できるのです。「理解」ということは1つの行動ではなく、入ってきた情報を、さまざまな形で行動としてアウトプットできるということなのです。ですから、最初からそのアウトプットの行動の部分を積極的に引き起こして増やす(強化する)ことが必要となる。

 大学の授業では、例えば「ガイドノート」というものを私は使います。先生の講義を聞きながら、ノートの中の空欄を埋めてもらったり、意見を書いたり、質問に答えるためのものです。集団での授業ではどうしても全員に発言をしてもらうのは難しくなりますので、こうやってそれぞれが行動を積極的にすることで、理解が深まるわけです。

 幼児教育でも同じことです。一般的な幼稚園・保育園などの教育を見ると、時々「わあすごい」と声に出してしまうような素敵なペープサートや、可愛い人形劇や紙芝居のような、素敵な教材を作ってくれる先生がいて、それは素晴らしいです。ただ、あまりに教材が綺麗なために、先生自体はただそれを黙々と子どもに見せるだけで、先生と子どもとのやり取り(子どもの行動)が引き出せていない場合もよく見られます。本当に良い先生は、どんな大したことのない教材を使っても、その中で子どもとのやり取り(子どもの積極的行動)を引き出せる先生なのです。本当に良い先生の前では、子どもが積極的にどんどん行動するのです。良い発言や、そうでもない発言や行動もあるかもしれませんが、指示されたことではなく、どんどん自発的な行動が出るのが、良い教育をしているかしていないかの違いにもなると思います。

 特別支援の教育でもそうです。一見勉強っぽい活動をしていても、私は勉強ではなくその中での子供の自発的な発言の数を数えていることが多いです。どんなに楽しく積極的に自分で言いたいことが言えるようになったか?意外かもしれませんが、そこが最終目的で、私の作ったお勉強のプリントを上手にできたかできなかったか、そこが目標地点ではないのです。私の言うことをお利口に聞くだけでは、足らないのです。もっと積極的に自分から行動してもらうような工夫を必ず入れています。

 ただ、多くの人にこのことは伝わりにくい。実際に私の教育の場面を見ても、お勉強をさせているのかと勘違いされてしまう保護者や教育者が多い。実際に子どもに受け身の勉強をさせて、どんどん「言われたことしかやらない」子どもが育ってしまう場合があまりに多い。いやいや、そうではなくて・・・と壊れたレコードのように、何度も何度も繰り返し説明させていただいてます。

 

 

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