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自閉傾向と問題行動の波

  先日ジムに行ってエクササイズをしました。エクササイズはずっと続けていたのですが、子どもができてから体力的にも追いつかずに、まあ要は怠けていたのですね。気づけばもう7, 8年はやっていないことに気づき、子どもが大きくなってくるとやっと自分に使う時間ができるのかと、少し感慨深くなりました。子どもが地域の老人から紙飛行機の作り方の教室のようなものに行っている間、え、親子同伴じゃなくて良い?え、その間何してても良いの?ということで自分のために時間を使ってみました。人生時間がある時もあれば、そうでないときもある。いろんな局面がありますね。  発達障害の子どもを持つと、中々親の時間が取りにくい。長期的に考えると、意図的に自分の時間を作らないと長続きしないというか、頑張りすぎてガックリくるときもある。特に自閉の子どもの場合、問題行動が出てくる波があったり、突発的な行動の変化があるときがあり、親はそれに備えておく必要もある。特に、コミュニケーション力がそこまでではなく、かつ「こだわり」が強い傾向のある子どもの場合、やはりその「こだわり」が分かってあげられず、問題行動につながる時がどこかで出てくるのは、仕方がない。時々大きな問題行動の波がやってきて、辛いと思わざるを得ない時期があるのは、誰のせいでもないのです。  どういうことかと言うと、例えば子ども自身でしっかりやりたい、最後までやりたいと言う「こだわり」があると、勉強や学校行事の練習(運動会や生活発表会の練習)などで、頑張りすぎてしまう傾向があります。「疲れたら休めば良いじゃない?」と言うのが普通の反応なのですが、しっかりやりたい「こだわり」によって、気づいたときには爆発するぐらいストレスを溜め込んでしまうのです。かつ、コミュニケーションが上手でない子どもの場合、感情表現として表情に出にくいとか、言葉でももちろん言えない場合が多いので、普通の表情をしていてストレスが溜まっていることすら分かりづらい。例えばちょっと勉強課題が難しかったとか、いつもなら大したことのないきっかけにより突然大暴れになったりして、「ああ、辛かったのね」と気づくことになります。本当の理由は生活発表会で頑張りすぎているというストレスの積み重ねだったりするのですが、それが勉強課題の難しさで大暴れになるのですから、周りから見ても大暴れの理由すら分からないことも多

自閉と感情表現

  健康診断で血圧で引っかかりました。1回目に測った血圧が正常値だったから良いじゃんと思うのですが、2回目ダメなら「精密検査」と検査結果は出るんですね。心臓機能は自覚症状もなく悪くなることもあるし、やっぱり精密検査を受けた方が良いか、うーん面倒臭い。まあ年齢とともに色々と体の不具合が出るのも仕方ないですね。  自覚と言えば、自閉の傾向がある子どもたちの多くが、自分の気持ちに対しての自覚が薄いと私は考えています。表情がもともと薄いというか、気持ちの上がり下がりが顔に出ない子どもが多くて、本人も自身の気持ちに自覚がないのです。周りの大人は表情から気持ちが読めないので、気持ち自体がないと勘違いしてしまいます。気持ちのあるなしは(心の中のことなので)結局は本人にしか分からないのですが、私の療育の体験からすると、感情自体がないのと仮定するより、気持ちへの 自覚 がないと捉えた方が行動の説明がつきやすいです。例えば人の物を壊すという問題行動がある場合「もしかすると、自分だけ物がもらえていないことを羨んで、それが欲しくて物を壊すという行動に出たのでは?」と推測すると、問題行動の対処は「それが欲しい」と要求させることだとわかりますし、かつ対処によって問題行動がなくなれば、その欲しい・羨ましい気持ちがあったこと自体の証明になります。他にも、感情の爆発(癇癪や大暴れ)があった時に「もしかしたら辛かったのかもしれない」と大人が気づくきっかけになることもあります。  自覚がない子どもにいかに自身の気持ちを表現し自覚させていくのかは、教える側からは本人の気持ちが見えませんから、難しいですが重要なプロセスです。まずは状況と行動を観察して、問題行動の前に何が起こっているのか、感情を引き起こす何かがあるのか、しっかりと汲み取ることが一つ目のステップになり、ABA的には機能分析とも言います。また小学生になって大きくなってくると、いろんな形で頭の中のことや気持ちを表現させる手段を増やすことで、周りの大人も本人の心の中の変化に気付きやすくなります。絵日記はその手段としてよく使います。言葉にはなっていなくても絵を描くことで、楽しいことやストレスのあったこと、心の変化を表現し、周りに理解してもらうきっかけになるので、頻繁に小さなことから絵に描かせていく練習をさせます。例えば本を読んだ後で感想の代わりに絵を描

ABAと遊び中心の学習

  9月から私の子どもを転園させました。家庭の諸々の事情により、今までは送り迎えと給食のついた(親にとって楽な)幼稚園に行かせていました。親の余裕が少し出てきたので、送り迎えも給食もなくても、親にとって納得のいく教育をしてくれる幼稚園を選びました。転園前の幼稚園は規律を重んじる幼稚園で、転園後は遊び中心の遊んでばかりの幼稚園。子どもにとっては大転換です。通い始めて3日で違いが出ましたね。前の幼稚園に送り迎えに行くときは、うちの子喋らないんです。私が時々信号無視すると「赤だよ」と教えてくれますが、それ以外はほぼ無言。新しい幼稚園に変わって3日でよく喋るようになりました。「こんなに喋る子だったんだ」と思います。よっぽど緊張して幼稚園に通っていたんでしょうね。  ABAは、特にDTTという机上のレッスンをやる時は、「コンプライアンス」と言って先生の言うことを聞いて、その指示に従うことを教えます。なのでABAをやっていると規律を大切にするイメージが一般にはありますかね。でもABAには遊び中心のセラピースタイルもあり、どちらが良いとABAの中で決まっている訳ではありません。どちらも教え方のツールなので、場合に応じて適切に使うことが望ましいのです。ただ、遊びを中心に教えるのは、教える側の高度なスキルが必要です。「ただ遊んでいるだけ」に見える中にどれだけ学習の要素を取り込むことができるのか?上手なセラピストほど、ただ遊んでいるだけにしか見えません。特に自閉の子どもは興味の幅が狭く、同じことを繰り返してしまって遊びが広がらないのが一般に障害の特徴ですから、どうやって遊びへのモチベーションを高めるのか?どうやって遊びを柔軟で広がるものにしていくのか、セラピストの腕が試されます。  一般教育でも同じです。私の子どもの幼稚園も、「ただ遊んでいるだけ」のようで、実はそこに先生方のスキルが光るものがあります。例えば生活発表会でも、私の子の通う幼稚園では、子どもが発表の内容を全部決めるんです。子どもたちが脚本家になり、自分達の好きなものをみんなで作り上げる。これを成功させるには、子どものモチベーションを上げる力、皆の意見をまとめる力など、先生には高度なスキルが必要です。名古屋でも一番と言っても良い歴史のある、有名な幼稚園です。昔は家柄の良い家庭しか子どもを通わせられなかった幼稚園だったと聞きま

ABAと夏休み:頑張りと楽しみのバランス

  夏休みもそろそろ終わりに近づいてきました。夏休み、お子様をお持ちの皆様は楽しめましたでしょうか?コロナになってから数年になりますが、今年の夏休みもコロナの第七波とがっつりかぶってしまいましたよね。特に8月からは感染者数が多くなり、もっぱら近くの河原ばかりに出かけて虫を取ったり、自転車の練習したり、運動したり。今年は幼虫から成虫になったばかりの白いセミも見つけました。バッタもトンボもいっぱい捕まえました。子どもに、どこに行きたい?と聞くと「河原」と即答するところがかわいいような、可愛そうなような。  ABAをやっていると、特に早期集中介入というのは、1日6時間を週に5日とか、とにかく起きている間中集中して学習させるために時間を使う。だから、ともすると楽しむ時間なんかないような勘違いをされる場合もあるのですが、実は必ずしも「介入(療育)=辛くても頑張る」ということではなく、理想的には「介入(療育)=楽しみの中に頑張りが散りばめられている」状況になることなのです。ちなみに私の指導教官は、「強化子の海で泳いでいる状態」が療育であるべきだと話していました。まあそれは現実的ではないにしても、できる限り楽しい方が良い。  発達に遅れのある子は、何事にも苦手意識が強い場合が多く、特に無理にやらされそうな匂いがするだけで、逃げ出してしまう場合もあります。例えば運動神経の良くない子どもの体力を伸ばそうと思った場合、苦手でもやはり運動させてあげて体力を伸ばしたい。しかし、とにかくダッシュの練習だ!と嫌がる子どもを走らせるのは、苦手意識をさらに強めてしまうこともある。走ることが目的ではなく、大好きな虫を捕まえるために自然にダッシュをしてしまうようなやり方の方が、特に運動が苦手な子どもには向いている。療育も同様で、できれば子どもの楽しい活動をやりながら、その中に頑張りの部分をバランス良く散りばめたい。ただし難しい点は、「子どもの楽しい活動の中に」といっても、発達障害(特に自閉の診断)があると、そもそも楽しい活動が中々見つからないことが多い。特に人と一緒の活動は、輪をかけて苦手な場合も多い。だからこそ、夏休みのような時には特に、人と一緒にやって楽しい活動を体験して、その喜びを見つけることにも時間を使いたい。  また、早期集中が終わって小学生に入ってからも、当たり前ですが、子どもってすごく伸

強度行動障害に対する行動分析学からのアプローチ

  しばらく前にも紹介しましたが、先のABAサービスと名乗る人物による傷害事件が起きたことにより、行動分析学会が7月31日に無料のオンライン公開講座「強度行動障害に対する行動分析学からのアプローチ:より正確な情報提供のために」と言うものを発信しました。それが100名限定ですぐに埋まってしまったとのことで、その後にオンディマンドでも視聴できるようになり、私も視聴させていただきました。  講演内容が良かったです。2時間半くらいの動画なのですが、はっきり申し上げて内容は難し目です。ABAを専門とされていない方が、最初から最後まで全部見ようと思うと挫ける場合もあるかと思います。しかし中でも武藤先生の話は非常に分かりやすく具体的で、ABA専門の方でも興味を持って視聴していただけるかと思いますので、興味はあるけれど挫けやすい方や時間のない方は是非とも武藤先生の部分だけでも視聴されると良いと思います。  武藤先生のご講義は、容疑者の方(…方って敬語を使う必要が?でも、まだ疑惑が確定した訳ではないので、犯人扱いはダメですよね。)の、youtubeにアップされているその方の講義の動画を出しならが、それを丁寧にABAの視点から解説されていました。講演会のようなこともたくさんやられている方なんですね。その方は、動画の中で非常にたくさんのABAの専門用語を使って講義をされているようで、それなりに勉強はされている感じでした。部分的にはABAの専門家から見ても「そうだよね」と言えるところもあり、何がおかしいのかな?と言うところから始まって、徐々に「ええ?それは違うんじゃないの?」となる部分が出てきて、また「その古い情報で…」と言うところもあり。普通に考えたらABAを使って「生徒に暴行」ってことはあり得ないのですが、結局は、ご自身の独自のセラピーのやり方を確立されており、それをABAの専門用語や専門書を引用して「正しいもの」と理論武装しているだけで、実際の「ABAのやり方・スタンダード」からは、かなり外れてしまっているものになっているようでした。  ABAの中でも「自己流」はある程度部分、あって良いかと思っています。しかし、それが「本筋」からあまりにかけ離れて元のものが分からなくなると言うことも、可能性としてはあることかと思います。私自身も、ABAの理論に基づいて、私なりの療育をしている部分もあ

読書感想文ってどう書くの?:課題図書から感想文へ

  うちの「思考表現のクラス」の7月の課題は読書感想文でした。今回選んだのは課題図書の一つでもある「ぼくの弱虫をなおすには」を選びました。1976年のアメリカのジョージア州が舞台になっていて、登場人物がトレーラーハウスに住むという状況設定や、黒人の人種差別がテーマになっていることなど、どうしても日本人には馴染みが薄く入りにくい感じかなと思っていたのですが、違いました。登場人物がちょうど4年生から5年生に変わる時の、思春期前の子どもの気持ちが上手に描かれていて、「いじめ」「怖いものの克服」「友情」など、文化を超えて共感できる内容が読んでいる日本の子どもにもすんなり入ってくるのは、翻訳の方が上手いんでしょうね。大人も楽しめました。とてもお勧めです。  トレーラーハウスという、日本で言えばプレハブとか小さな集合住宅的な、低収入の家庭が住むイメージのところに住む主人公、怖いものがいっぱいあって、イジメられがち。親友と一緒に怖いものをなくしていこうという設定。子どもの時ならではの、冒険的な楽しさもあり、怖いものもたくさん出てきて、最後まで目が離せない。私のところに来るような生徒さん、やっぱり挫けやすくて、怖いものもたくさんある子どもが多いです。主人公に共感できることもたくさんある。  教室で読書感想文をするときには、1つ1つの章を読むごとに、感想を言ってもらいます。どんな下らない意見に思えても良いので、まずはその時々の気持ちを口に出して、それをノートに(付箋に)書き留めて、気持ちを残していく。最後まで読んで「感想」と言われても、その時の気持ちを忘れてしまうことが多く、まずは付箋にノートとして残して、気持ちを形に残すことから始めます。  KJ法って知ってますか?ビジネスとか研修とかでよく使うもので、皆の意見を1つ1つ付箋にしてホワイトボードに貼っていく。それを同じようなもの同士グループにまとめて行くんです。なので、自分の感じた気持ちの中でも、同じような気持ちをグループ分けしていくと、全体としてまとまりのある感想文の骨格が出来上がる。やはり最初のうちは、大人がそのグループ分けの部分はお手伝いが必要になります。感想文ですから「子どもの気持ち」を大人が勝手に考えてしまうようなお手伝いは良くない。でも、最初からまとまった構造の感想文なんてかけるわけがないですよね。こうやって自分の頭の中

虐待とABA、そして認定資格

  7月23日、日本行動分析学会からメールが届きました。内容は、「応用行動分析学に基づく療育サービスの提供をうたった団体による傷害事件」が報道されたとのこと。要は、ABAを語ったサービス提供者が傷害事件を起こしたということです。今後ABA療育に対する偏見が生まれる危険性があるため、それを防ぐために公開講座(無料)が緊急企画された( https://drive.google.com/file/d/1HrRbOxnJ86uPSTXLV8TRbh9OfzJgfc-M/view?usp=sharing )というものでした。  私もこの事件のニュースが報道されたことについて知らなかったので調べてみると、「手足を縛った上で頭を殴るなどの暴行を加え、監禁した」などとyahooニュースに出てきて、これが本当の事実であれば、こんな恐ろしいことが行われるなんて、怖い限りです。どうしてこのようなことになったのでしょう?  大きく言えば、自閉の傾向のある子どもや若者は、他人とコミュニケーションを取ることが苦手です。気持ちがうまく伝わらないイライラから、人に対する強い攻撃行動や、自身に対する攻撃(自傷)行動に至ってしまうことも、残念ながらしばしばあります。人のことを攻撃してしまう行動は、本人のためにも将来絶対に続けて欲しくないので、「絶対にそれは良くない」ということを固い表情や強めの言い方で、私は伝えます。楽しい活動をしていれば、一旦それも中断します。もちろんそれ以外の場面で、適切な行動を何十倍も褒めることが前提として必要です。コミュニケーションが難しい人に対して、手足を縛るとか、殴るとかは、もちろん人権上あってはならないだけでなく「人とコミュニケーションを取ろう」という動機を余計に下げてしまいます。今回の事件は、問題行動があったから手足を縛ったのかも不明なので、一体どのような経緯でそんなことになったのやら。  本来ABAを使う場合、問題行動がある場合、どうしてそのような行動をするのか?行動の起こる理由を分析して、その理由に対応した策を考えます。(行動の起こる理由の分析を機能分析と言います。)例えば欲しいものが手に入らないなら、要求する方法を教えます。活動をやりたくないのであれば、活動自体の選択肢を増やしたり、簡単にしたり、工夫を考えます。問題行動が起こる理由そのものをなくしていく方向性が最

公認心理師試験とユニバーサルデザイン

  先日公認心理師の試験を受けに行ってきました。名古屋駅から近い「ささしまライブ」というちょっとオシャレな感じのところにある、愛知大学が試験会場でした。新幹線から愛知大学の看板は見たことがある方もいるはず。受験票に昼食持参の指示があったので、おにぎりでも買おうと思っていたのですがコンビニが何故か見つからず、ちょっと遠回りしてまで行ってみたコンビニでは偶然おにぎりがほぼ売り切れで、朝からスムーズに事が運ばない。到着すると、愛知大学の前は長蛇の列が遠くまで見える。へえ、こんなに公認心理師になりたい人いるんだ、と自分も受けておきながら思ってしまいました。何だか嫌な予感。  列の後尾に並んでそのまま移動すると、隣のビルまで行って、また戻ってきて、9時前に到着していたのが、最終入室時刻の9時20分を過ぎてもまだ建物内に入れず、9時40分くらいにやっと入室できました。さて、トイレにでも行って、受験票を用意して。受験票をよく見て見ると、鉛筆は自分で用意・・・。しまった!私の筆箱を開けてみると、いつものペンとマーカーとハンコ。シャープペンや鉛筆って、教室で仕事するときに以外では使わないんですよ。ああ、試験はマークシートだったんですね…久しぶりに昭和な感じ。私の最後に受けた資格試験最終はもう20年も前のアメリカでのBCBA(認定行動分析士)の試験。コンピューターで試験を受けるんですよ。試験場でそれぞれのコンピューターに向かって、クリックする。日本はまだ何十年も前から試験のスタイルが変わっていないんですね、って受験票ぐらい読んでおけよ!読まないんですよね、私。馬鹿だなあと自分で自分に突っ込みながら、今更ながら受験票を読むと「貸し出しは一切致しません」と書いてある。あーあ。しかもスマホは使用禁止なので、腕時計も必要と。普段スマホしか使わないから、腕時計なんて皆持ってないでしょ?部屋には時計がない。愛知大学さん、時計入れようよ。がっかりしながら試験官に「あの〜。貸出しないとは書いてあるんですが、鉛筆がなくて・・・」というと、鉛筆一本と消しゴムを貸してくれました。ありがとう(涙)って、鉛筆一本かい?途中で折れたらどうするんだろう?・・・まあ忘れた私が悪いんだから仕方がないのですが。とほほ。時計がないから時間も分からないし。最初から波乱の幕開け。  試験の説明が始まると、問題が配られてもまだ開

学校教育と自殺、多様性の教育へ

  今週私の担当する大学の授業は、自殺問題でした。教育大学での授業ですから、将来学校の先生になられる生徒さんも多いです。まず新聞記事を読んで、学校の担任の先生の注意叱責がきっかけとなり生徒が突発的に自殺したと言うケースから授業を始めると、生徒さんも真剣に話を聞いていました。学校の先生になるって何て大変なことでしょう?先生の「良かれ」と思ってした指導がきっかけとなり、多感な時期の生徒を自殺に追い込んでしまうこともあるのです。それぐらい責任の重い仕事です。みんな良い先生に育って欲しいと切に願う。ちなみに日本の子供の自殺率、先進国中一番高く、病気よりも多く一番の死亡理由が自殺だってご存知でした?自殺率の圧倒的に高い日本、どんな教育制度なんでしょうね。  気になるのは、世の中の変化に学校がついていっていないと感じることが多いこと。うちの教室のハーフの生徒さん、お父さんはオランダ人なので「世界一」と言われる教育を受けて育っています。自身の子供の参加する日本の軍隊式の運動会を見て、「日本はすごいね」と皮肉っぽく笑われてしまったようです。みんなが右向けば右を向く、軍隊のように行進し、参加しない時間も「応援しなさい」と叱られる。多様性が叫ばれる現代にあって、そんな昭和な運動会がまだ存在して良いのでしょうか?無理に競争させられて、みんな一様に行動することを強制させられて、これでは多様な社会を生き抜く人材を育てることができないと思います。  引きこもりや不登校も、こういった「みんな一緒でなければいけない」無言の圧力が大きな理由になっているのではないでしょうか?特に私の教室に来られるような発達障害のある生徒たちは、皆と同じようには行動できないことが圧倒的に多い。「一緒の行動をする」と言う意味では圧倒的に外れてしまうわけです。私もアメリカに行ってるぐらいだから、かなり日本の標準行動からは外れているタイプ。幼稚園に土足で入って「土足で入る先生」と噂されていたことも。でも活躍できるところもあるんです。人と違うと言うことは、悪いことではない。要は、そう言う人であっても、活躍できる社会が必要なんです。ちょっと他の人と違うからと言って問題児扱いされる環境自体が問題だと思います。  多様性のある学校では統率がつかない?そんなことはないのです。私はよく「みんな頑張る」と言う目標を使います。みんな「それぞ

七夕と「おこだでませんように」:褒める力

  今週は七夕でしたね。年々夏が早くなり、今年の教室は七夕をすっ飛ばして7月からお祭りをテーマに活動を進めてますが、七夕の日にはやはり「おこだでませんように」の絵本は読みました。いい話ですよね。いつも先生からもお母さんからも叱られてばかりいる子どもの話で、情緒の問題で教室に来ている生徒には、だいたい毎年読んでいます。子どもの方も、特に叱られているシーンとか悪いことをしているシーンは、じーっと見てます。自分を重ね合わせたりしてるんでしょうか?何か感じるところがあるのでしょうか?そこまでは詳しくわかりません。  ネタバラシになってはいけないですが、主人公の叱られる子供が「僕も本当はええ子って褒められたいんや」と言っているシーンがあります。私たちの教える発達障害の生徒は、素直な気持ちをそんな風に言ってくれる子は1人として見たことはありませんが、ほぼ全員の子供がそう感じてはいるなとは思います。すごく子どもの気持ちを捉えて代弁してくれている本だなと思います。なぜ褒められたいとこちらが推測するかというと、理由はやはり、褒められ続けてくるとできることが増えて、全然行動が変わってきたり、表情が変わってきたり、素直に嬉しそうな顔をしなくてもニヤリと笑うようになってきたり。褒めることの力によって、こんなに変わってきたかと、本当によく思からです。そうだよね。みんな褒められたいよね。  自閉スペクトラム傾向のあるお子さんの行動特徴的は、犬よりも猫ですね。褒められて素直にぴょんぴょん喜んだり「もっと褒めて」と来るよりも、ちょっとニヤッとするだけだったりします。大好きなお母さんが来ても、ニコッとせずにしれっとしています。ママのことあんなに大好きなのに、素直になれよ。逆にこちらが注意を逸らして他ごとをすると寄ってきたりしますが、こういうの「ツンデレ」って言うんですかね。だから、「本当は褒められたい」と言う気持ちをわかってもらえないことが多いんです。一般の先生からすると、この子は本当に悪いことばかりして、なんで良いことして褒められたくないんだろう?と思ってしまうのも、分からなくはないです。  でも療育の仕事をしていると、段々とそう言う特徴がわかってきます。素直になれないその感じ、ツンデレがたまらなく好きになってきます。どうやったらこの子を笑顔にできるか?どうやって褒めるところを見つけて、どうやって

ABAセラピストの教育:BCBAとRBT

  今職員が入れ替わりの時期にあります。名古屋の教室から東京の療育センターに転勤になった職員、出産のため産休をとった職員、結婚退職した職員、次の人生計画に進んだ職員、あれよあれよと小さな教室からバタバタと人がいなくなり、そして誰も・・・ではないですが、びっくりするぐらい同じタイミングで人が去っていき、本当に寂しい限りです。しかし人生いろいろですね。教室から巣立って他の場所で活躍されるのは素晴らしいことですし、喜んで見送ってあげようじゃないですか。そして今日、教室に新しい職員がやってきました。嬉しいですね。捨てる神あれば拾う神あり。なんだかポジティブな気分。さらに嬉しいのは、新しい職員と言っても、同じ会社(エルチェ)の神奈川の事業所から転勤してきてもらった職員なので、既に5年の経験もあり、頼りになります。若くて頼りになりる人がこのタイミングで転勤してくれるなんて、なんてラッキーなんでしょう。今日は教室のみんなも、いつもよりも前向きな感じで…って、いつも後ろ向きじゃないってば。  さて、ABAのセラピストってどんな人でしょう?日本では「ABAセラピスト」ってざっくりすぎて、どんな訓練をされるのかイメージがわかないと思いますが、アメリカでは大きく分けて2種類います。BCBAのレベルとRBTのレベル。BCBA(行動分析士)のレベルは、大学院まで出た専門家。ABAのプログラムを監督(スーパーバイズ)し、現場で生徒を教えるセラピスト(RBT)を訓練し、その質を保つための専門家。RBTのレベルは、40時間以上の訓練を受けた人になりますが、それだけの訓練では自身で判断し分析することは難しいです。BCBAレベルの人が常にスーパーバイズを行い、そのセラピーの質を担保することが必要になります。今私の教室でも、実際に海外の大学院を卒業して、私の元で実地訓練を受けてBCBAに育てたセラピストが1人卒業して、今まさに私の元を巣立っていきます。BCBAですから、自身で考えて分析し、人を監督するレベルです。巣立った後、ある意味守られた私の教室以外の場所で、今後もしっかりと活躍して欲しいです。  日本では実際に海外の大学院を出てBCBAを取るのは難しいですよね。日本でも日本の大学や大学院で ABAを学んで、その後私の教室のような場所で実地訓練を受けて、BCBAに準じるレベルに成長される方もおられます

視線合わせ:共同注視と動機について

  今日、うちのひまわり教室の2歳の生徒が「あ」と言って教室のカレンダーを指差し、私の方を見ました。指差したカレンダーを見ると、「はらぺこあおむし」のちょうちょが描かれていました。「お、あおむしのちょうちょ見つけた?」と言うと、保護者の方から説明がありました。教室で「はらぺこあおむし」の絵本を読むようになって好きになり、最近は自分で絵本のページをめくって読むようになり、最後のちょうちょになるシーンで、「あ」って言うようになったとのこと。納得。確かにそのページは「あ、ちょうちょ あおむしがきれいな ちょうちょになりました」でしたね。まだ言葉が数語出てきている状態なので、「ちょうちょ」と言える時もあるけれど、「あ」は「ちょうちょ」と比較して、簡単に安定して言える音だったんですね。  実はこれ、発達に障害がある子どもにとっては、すごく大切な「共同注視」というスキルで、他の人が指差したものを見ることと、子ども自身から指差して相手に見てもらうこと、その両方を含みます。人とのコミュニケーションを取るには、同じものを見ていると言うことは不可欠なスキルなのですが、発達に遅れ、特に自閉傾向がある生徒にとっては非常に難しいスキルになります。人が指差したものを見ることも、自分から「見て見て」と何かを指差すことも、非常に稀なことなんです。指差しは発達の指標の一つにも入っています。特にトリッキーなのは、自分から指差しする方です。元々「見て欲しい」と言う要求がない場合、指差しして「見て見て」という行動だけを教えても、自分からはやるようにはならない。当たり前ですよね。行動のその背後の動機の両方が大切なのです。これを教えるには、指差しをして人から注目してもらい「ああ、人から見てもらえて嬉しい」と体験させることが非常に大切で、これを通して「もっと見てもらいたい」と動機が高まり、自発で行動するようになるのです。  また、指さし(共同注視)だけでなく、「あ」と自発で音声を発することも、声を絞り出させてあげられるわけではないので、お手伝いができない。その行動を引き起こせなければ、強化して増やすこともできない。ですから、自分から言いたい(自分の言った音が聞きたい、もしくは音を言って他の人に聞いてもらいたい)動機が高まらなければ、偶然音が出た時に強化する以外はないのです。  この子どもがちょうちょの絵を見て「

発語のない子どもの教え方:言葉の発達の促し方

 今「ドラキュラ(Dracula)」の本を読んでいます。ドラキュラは、Bram Stokerという人が1897年に発表した小説で、トランシルバニアのお城とイギリスを舞台にした吸血鬼の話なんです。へえー、元々小説だったのね。英語で読んでますが、内容はかなり面白いのに、やっぱり英語だと日本語よりも頭を使うんでしょうか、疲れるんですよね、中々進みが遅い。アメリカには12年以上住んでいたので、特に大きな問題なく英語で会話してお仕事もこなしていたのですが、それでも帰国子女ではない私に取っては、英語での完全なるリラックスは難しいかもしれない。帰国してもう7、8年経っていますし、英会話も久しぶりだと言葉も出遅れますね。中々思っている単語が出て来ない事も多い。…!ただの老化?  言葉の発達を促すのは、自閉スペクトラム症(ASD)診断を受けた子どもにとって、そしてその療育をしている者にとっても、永遠のテーマです。ABAの療育でもほぼ無発語から普通級に通うようになるまでに成長する子もいれば、無発語のままである事もあります。自閉の診断を受けて教室に通う子どもの中でも、無発語だったり、そもそも発声自体が少ないタイプのお子様は、ある程度の割合でいます。「言葉が話すことができれば…」「何とかしてこの子に話すようになってもらいたい」と言う目的でABAを探して来られる方も少なくはありません。しかし無発語で、かつコミュニケーションの意思自体があまりない場合、ABAや言語聴覚士などの専門家についても、やはり言語習得の道のりは簡単ではありません。  理由の第一は、発声をお手伝い(プロンプト)してあげることができない。他の行動はこちらが手を取ったりして動かしてあげて、「こうするんだよ」とやらせてあげる事も可能です。でも、声ばっかりは首を絞めて絞り出してあげるわけにもいかない。声は、自分から出すのを待って、出た瞬間に強化する以外にないのです。発声の行動を強化する一つの方法を逆模倣と言います。子どもが声を出した時にそれを大人が真似してあげる事です。場合によっては、「あー」と言っただけでも、「あー、雨だね。お話できたね。」とその時に適切な言葉に(もしかすると雨の意図で言ったわけではなくても)替えて言ってあげると、より自然に褒めることも可能になります。まずは全体の発声の頻度を上げた上で、徐々に「シェイピング」と言

執行機能 Executive Function

 色んな仕事が分刻みに飛び込んできて、何しているか分からなくなること、ありませんか?仕事をしていて顔を上げると職員と目が合って「教材を作ったのでチェックしてください」と声がかかる。教材をチェックしている内に名古屋市役所から電話がかかってきて対応する。電話の対応が終わってコンピューターを開ければメールが山積みで、返答を始める。返答が終わらないうちに、また次の職員から声をかけられる。あれやって、これやって、気づけば時間が過ぎていて、私がやる予定だった仕事が一つも進んでいない。私はキャパが大きい方ではないので、仕事があまりに多いと、だんだん何をしているのか分からなくなってきます。「キャパオーバー」状態の人って、周りから見てもわかるんでしょうね。職員も気を遣って「これチェックできますか?でも、時間がある時で大丈夫です。」と言ってくれます。優しいのね。でも、時間がある時っていつのことやねん?今やらずにその仕事を放っておくと山積みの仕事の中で忘れ去られてしまう。「3歩歩くと忘れちゃうので、今チェックします。」といつも答えています。本当に3歩歩くと他の仕事が入ってきて、さっきまでやっていた仕事が中断させられてしまうことも多い。夕方になって「ああ、今日も何も成し遂げられなかった・・・」とガッカリして家路に着くことも多い。ああ、中年の中間管理職って・・・。  そんな何も成し遂げられない私にピッタリなのが、今月の教室のテーマ「執行機能」です。認知機能の一つですね。簡単に言うと、レシピに従って料理をするとか、活動を段取りよくこなすことに関連する働きを言います。活動を段取り良くとか、上手にスケジュール管理するとか、そもそも苦手な人って私だけではないはずです。また、歳をとって脳機能が衰えてくるとこの執行機能も失われてくることが多く、例えば認知症予防のために料理をすると良いと言うのもこの執行機能の訓練になります。執行機能は「非認知能力」の一部とも呼ばれます。知能や偏差値に関連する認知能力ではなく、実はこのような「非認知能力」が将来の成功につながると言われています。障害や年齢に関わらず、この機能の訓練は多くの人に役に立つことと考えて良いでしょう。  発達障害で言えば、複数のステップを順を追ってやっていくことって、気が散りやすいADHDの子は一般に苦手なことが多いのはイメージしやすいですよね。他に

関係反応:言葉のつながり

  うちの子どもが私に聞きました。「パパは大きくなったら、何になるの?」私は答えます。「そうだねえ。パパは何になろうかな?じゃあパパは、アイドル。歌って踊れるアイドルになりたい。(父踊る)」子「ええ?アイドル?女の子がなるんじゃないの?(笑)」父「女の子?男の子もなれるよ。」子「でもパパって、何で大人なのに何にもならないの?」父の内心(私って、何にもならなかったのか・・・?)父「じゃあ、パパはいつも何してると思うの?」子「パパは、お仕事行って、働いてる・・・(笑)あ、そうか。」  子どもの理解ってどんな感じなんでしょうね。確かにお仕事と言えば、消防士とか、お医者さんとか、電車の運転士とか、普段から子どもにとって身近な職業を思い浮かべるかもしれない。ちなみに、この「パパは大きくなったら何になる?」の質問は、結構何度も聞かれています。その度にアイドルとか適当な返答はしています。そう言えば、それよりちょっと前は、「パパ今日お仕事で何するの?」の質問をよくしてきていた時期もあり、「今日は教室で、工作でちょうちょ作ったよ」とか、「これは教室で歌っている歌だよ」とか、そう言う情報も与えていたかもしれない。教室で工作を作ったり歌ったりして遊んでいると思ったかもしれない。そう言われれば真実からそう外れてもいない。でも、「パパのお仕事は子どもに教える仕事だからね」とも伝えているとは思うのだけれど・・・。  言葉のつながりは難しいです。新しいことを教えるというのは、新しく教えた言葉と過去に教えた言葉とがつながって、理解のネットワークを作ること。例えば、「りんご」と言う物と言葉をすでに知っている子どもに、学校で「りんご」と言う平仮名を教えるとします。この場合、「りんご」と先生が口で言いながら、それをひらがなで書けるように練習し、言葉の「りんご」と平仮名の「りんご」と言う、一つの繋がりを作ったわけです。しかしこの教育の結果として実際に期待されるのは、「りんごパン」と書かれた字を見てパンの中に何が入っているか分かったり、プリントにあるりんごの絵を見て(言葉を聞かなくても)そこに平仮名で「りんご」と書けるようになったり、言葉と平仮名以外の繋がりのネットワークが(勝手に)生まれることなのです。「勝手に生まれる」「期待される」と言いましたが、ネットワークを作る部分は、実際には通常教育では教えられな

2袋のクッキー

 先日こちらの教室で、保護者と少しじっくり目にお話をする機会がありました。この日の悩みの内容は、療育というよりも教育に関する夫婦間の意見の違いについての悩みでした。普段は控えめなタイプのお母さんなのですが、この日話したいことがたくさんで、一生懸命お話していただいて、そしてひと段落した時には、ほーっと体の力が抜けたようでした。気が付けば、子どもは母が準備してきた朝ごはんの残りをカバンから出していました。「そう言えば、朝ごはんをゆっくり食べている時間がなくて…」とお母様。お腹が空いているなら、今食べさせましょうね、と子どもに食べさせていながら、ふと私も気づきました。この状況をよく考えると…絶対にお母様も朝ごはん、食べてませんよね。子どもの食事を自身の食事よりも優先させる母親が圧倒的に多いんです。既にお昼前の時間です。相談したいことで頭がいっぱいの時ほど、子どもの準備や世話は普通にこなせても、自分の食べることとか、忘れてしまうものなんです。朝ごはんの残りを子どもが食べている間に、お母様にも教室からクッキーを2袋出しました。ママがクッキーの袋を一つ開けると、子どもが寄ってきて欲しがり、ママはそれを子どもにあげてしまう。母親ってそんなものです。自分も食べていない筈なのに、子どもを優先させてしまうんです。結局もう一袋のクッキーは、私が子どもと遊んであげている間に、こっそりと食べてもらいました。クッキーが2袋必要なのは、こう言うことです。  ここから学べること一つ目は、相談場所を作ること。子育てをしていると、「どうしても今話したい」って言う時、ありませんか?いつでも相談できるお友達がおられる方は良いのですが、子どもの悩みっていつ起こるのか予測不可能なんです。ですから、「今ここで、どうしても」という時に、必要な相談を常に誰かにはできるように、相談できる相手との関係性を1人でも多く作っておく方が良いのです。ぜひ療育機関でも、普段から少しずつ、大したことのない話題からでも良いですので、相談しておいてください。何かあった時に相談できる関係性を作っておいて欲しいからです。こちらの教室では、予約制ということではなく、いつも通りの療育の時間でも気軽に保護者が相談できるような雰囲気を作るようにはしています。子どものこと、家族のこと、園でのこと、明日に回さずに必要な時に誰かに話すことが、子育てをす

モンスターペアレントと言論の自由:学校教育に親が物申すこと

  「おいしい給食」と言うドラマを見ました。俳優の市原さんがメチャメチャ良い味出してるドラマですね。ドラマ自体はエンターテイメントとして見てて面白いと思うのですが、学校給食って私は良い思い出がありません。私の場合好き嫌いはあまりない方で、給食が食べられずに困った思い出はないです。また、無理矢理食べさせられたような記憶もない。でも、単純に給食が美味しかった記憶がない。美味しくないけれど、仕方のないもの…給食はそういうイメージでした。  でもこのドラマ、おいしい…給食?給食に美味しいという形容詞、つけて良かったかしら?皆さんは学校給食、好きでしたか?私が見たドラマのエピソードは、「ソフトメン」と呼ばれるビニール袋に入った細めのうどんのような麺が取り上げられていました。このソフト麺をカレーとか、その他 からめる タイプの具材と一緒に食べるのですが、ドラマではこれが「給食の4番バッター」のような表現で颯爽と登場し、皆が嬉しそうにこの麺をすする。驚きました。ええ!?これこそが、学校給食の私の記憶の中では、特に美味しく ない もの、かつ頻繁に出てきて 嫌な ものと位置付けられていたものでした。ドラマの中でも袋の上から手で4等分するシーンがありましたが、ソフト麺なので手でもフォークでも簡単にブツブツ切れる。別に味付けがついている麺ではないのですが、歯応えのない食感なのか、小麦の味なのか、なんだか分からないけど、すごく美味しくない。でも確かに、特に文句言っている人も聞いたこともない。やっぱり、そう思っているのは、私だけですかね?あの美味しくないものが、世の中では「給食の4番バッター」等ともてはやされている?4番バッターって、スター選手ってことですよね。給食のハイライト。私にはそんなこと言う意味がわからない。嫌いなのは私だけ…やっぱり私の意見はマイノリティー(少数派)か…と思いました。だから友達少ないのか…。  こういう「ええ?私だけ?」と言う気持ち、実は、特別支援の生徒を持つ保護者は、学校でよく感じる気持ちなんです。支援の必要な子どもって、当たり前ですが少数派です。基本的にみんなと一緒のやり方で学んだり、みんなと一緒に行動することが難しい。でも、日本の学校教育は大多数に合わせようとする社会的な圧力が強い。極端に言うと、大多数はの人のやりたいことは「普通」と呼ばれ、少数派のやりたいこ

注意する派?しない派?:フィードバックと褒めること

  公園で子どもと遊んでいると、他のお父さんと子どもがキャッチボールをしに来ました。小学1、2年生かな?と思える男の子、なかなか上手にお父さんとキャッチボールをしています。何とはなく見ていると、お父さんの投げたボールがうまく取れず、お父さんからアドバイスを受けると、「うるせ〜クソジジイ」と言いました。小学校1、2年生でそんな言葉をもう覚えてしまうのですね。想像ですが、お兄ちゃんがいるんじゃないかな?と思って見ていました。お兄ちゃんがいると、良いことも悪いこともかなり早く学習していきます。そんな悪い言葉、お父さんはどう反応するのかと思って見ていたら、「ジジイじゃねえ!・・・(声を小さくして)初老だわ。」と言っていました。中々面白い。座布団一枚。  そうです。親に「ジジイ」はダメです。このお父さんも「ジジイじゃねえ」とすぐに訂正していました。ダメですよねえ。最近公園に行っても電車に乗っても、子どもの悪い行動をしっかりと注意することを親がしない場合が多くて、びっくりします。別におしっこ漏らすほど怒る必要はないですが、少なくとも悪いことは悪いと言って欲しい。  ABAの中では、子どもの行動について、それが良い悪いなどの評価を伝えることをフィードバックと言います。フィードバックは勘違いも多い技法の一つなので、紹介しますね。例えば、子どもが良い行動をした時には、「すごいね」「よくできたね」と褒めますよね。同様に悪い行動をした時も「それはしないよ」「良くないね」と伝えることになります。「よかったね」と行動をほめて、適切な行動を増やす強化の部分は非常にわかりやすいので、どなたにも納得してもらいやすいです。しかし良い行動が起こらなかった時、間違った行動が起こった時、どうすれば良いのでしょう?  間違った行動をする時、行動をする人が、その行動が間違いだと知らないと困るので、まずそれを伝えます。例えば、カーナビでルートを間違えた場合、カーナビは「間違えました」とは言いませんよね。不必要な罰は与えない。しかし「ルートを再検索をしました」とルートが変わる。これは間違いを指摘することと同じになるので、フィードバックになります。指摘するだけでなく次の適切な行動をプロンプトするのが、フィードバックの役割にもなります。ただ勘違いしやすいのは、「間違えました」と言わないからと言って、間違いを指摘しなか

学習障害、学校教育への疑問はどうするの?

 実は昨年のクリスマス頃、名古屋市の教育委員会の方と懇談会を持つ機会がありました。教育委員会のお偉い方々とミーティングができるなんて、一体どんなことかと申しますと、きっかけは、名古屋市議会に提出された保護者からの手紙でした。読み書きなど特定の分野において困難を示す学習障害は、一般に通常の知能を持ち、会話にも社交面にも問題がありません。俳優のトムクルーズが読むことができなくて学校をやめたと告白したことでも有名でしたね。今やクラスに何人かいてもおかしくない状態。ただしその生徒さんの場合は、障害の発見も遅れ、支援級に行ったり、普通級に戻ったり、その中で学校の問題点、例えば適切な合理的配慮が遅れたこと、個別支援計画がシェアされていなかったこと、支援級で必要なカリキュラムが教えられていなかったことなど、様々な困難に悩まされました。この手紙を受けて、教育委員会のトップである教育長が議会で謝罪するという大きな事件が起こったわけです。  これを受けて、議員さんのお力添えを受けて、当事者の方と、親の会の方、私のような支援事業を営む者も交えて、小さな懇談会が開かれました。議員さんから、今回は話を聞いてもらうだけで、返答はまだもらえませんよ、とのこと。良いです、良いです。こんな懇談会が得られるなんて、またとない機会ですし、返答は後ででも。そのようにして開かれた懇談会では、特に当事者本人からの言葉が皆の胸を打ちました。発見が遅れたことについて、どうして読めないってお母さんに言えなかったの?と質問されて「馬鹿だと思っていたから」との返答。将来は何になりたい?と質問されて「将来は特別支援級の先生になりたい」との返答。こんな率直な受け答えができる利発な子が、どうして馬鹿なことがあるかと、きっと将来は先生になれるよと、参加者皆が涙ぐんだ瞬間でした。  数ヶ月後、保護者が回答について教育委員会に打診すると、「回答するつもりはありません」とのこと。どう言うことでしょう?さらに「もし回答するにしても特に進展はないので、あまり意味のないものになります。それでもよろしければ議員より連絡をいただきたい」との返答を受けたそうです。特に進展はないとは、どう言うことでしょう?もちろん回答は必要ですと議員さんを通して回答を要求してもらいました。その内容を大雑把に言うと、現在既に行われている教育システムを説明するだけで

夢、思考、観察できない行動、見えない行動の見える化

  ちょっと前、山崎豊子の「大地の子」を読んでいるという話をしましたが、読み出したら本当に止まらないですね。面白いというか言葉で表現して良いのか、書いた人の熱量が凄すぎて、ストーリーの展開と勢いに圧倒されて、目が離せない。その前に読んでいたのが「鬼平犯科帳」だっとので、まあ勧善懲悪で安心して読めて、割と楽に楽しめたのと良い比較になりました。「大地の子」は読書に対する集中力を必要とするストーリーで、読む側のエネルギー消費量も高いと言うか、同じ読書でも楽しみ方が全然違いますね。結局通勤電車でも、短時間で乗り換えるのにちょっとでも読み、寝る前にも読んで、を繰り返していたら、遂に夢にまで出てきました。本が夢に出るって・・・私の頭の中でのドラマ映像化と言うことです。本で読んだことが夢に出てくるとは驚きました。ちなみにドラマ化されている本ですが、ドラマの方は見たことないです。夢では登場人物の顔はハッキリしていないのですが、カラーだったと思います。戦後間もない頃の中国の設定ですから、詳しい様子はよく分からないですが、例えば服装とか、「人民服」としか記述のない服装や当時の家の様子なども、ぼんやりとですが映像化されていたと思います。きっと想像で補うんですよね。私の頭ってすごい。そうそう、鬼平犯科帳も何となく映像化しながら、想像しながら読んでいたと思います。江戸時代のちょんまげの侍とか。  よく考えると、人って凄いですよね。文字を読んで、それが頭の中で勝手に映像化される・・・。もしかすると理解を映像化するのではなく、文字を理解するために映像化があって、それが内容の理解につながるのかもしれない。頭の中であまりに自然にやっているので、普段そういうプロセスが行われている(行動が起こっている)こと自体に、気づくこともない。  こういった頭の中の思考のような、観察できない行動をABAの専門用語で「covert behavior」(隠れた行動)と言います。そして「疲れた」「お腹が減った」状態とか、誰にも見られない本人だけしか分からない体の状態を「private event (私的な状況)」と言います。「嬉しい」「悲しい」感情とかは・・・状態?行動?まあ、見えないことだけに、行動だとも完全に言いづらいですが、感情が起こるには、何かしらのホルモン分泌は行われていそうです。分泌は死人にはできないですね。

新学期(3月4月)の問題行動

  4月に入って新しく教え始めた愛知教育大学での教育相談の授業も、何とか無事2回目を終了することができました。「無事2回目を終了」なんて、なんて大袈裟なと思われるかもしれませんが、それが今時の非常勤講師も大変なんですよ。  それぞれの大学にはそれぞれのシステムがある・・・つまり、教室の使い方から、wifiの入り方から、契約の方法から微妙に違う。まあそれは普通ですよね。今回大変だったこと、と言っても過去形ではなく現在進行形での大変なことが、ハイブリット授業の実行です。ハイブリット授業?何となくお察しの方、その通り。授業の半分は対面で、半分はオンディマンドでやって欲しいと言う意味です。と言っても、最初の7回はオンディマンドであと8回は対面で、と言うことではなく、コロナ対策上教室にいる生徒の人数を減らすために「毎回半数の生徒は対面で、半数はオンディマンドで授業を受けさせよ」と言う大学側の無茶振りなんです。オンラインなら全員オンラインにしてしまえば、生徒も講師もやりやすいのに・・・どう考えても講師の授業準備の時間が必要以上に増えてしまう。結局は私の場合、コロナ時代に欠かせないzoomを使って授業を録画し、それを生徒がオンディマンドで見られるようにネット上に上げる方法にしました。自身のラップトップを持って行き、ラップトップの画面をプロジェクターを使って対面の生徒に資料と私の顔を見せながら授業をし、生徒の反応も気にしながら、録画されるべきラップトップ上の画面もチェックして・・・。これでは授業中もリラックスして話ができない。  それと同様に難しいのが、システム上でのクラス管理。宿題もオンラインん上で提出してもらい、オンディマンドのビデオもシステム上にアップロードして、きっと成績評価もシステム上で?・・・そこまで先が見えない。毎日目の前のことだけに集中する以外にない。システム自体は分かってしまえば難しくないのですが、特に3月は全く使用方法がイメージできないままでした。誰に聞いたら良いのかも分からず、ちょっとずつ誰かに質問して答えをもらい、こんな状態で4月の授業ができるのかと言う不安のまま、綱渡り状態でやっと4月の2週目が終わり。時々「ウキー」と叫んで、髪をかきむしって走り出したくなる。  よくよく考えると、これが私の教える生徒(発達に遅れのある生徒、言葉が上手く分からない生徒、自閉

教育には積極的な自発の行動を目標に

  今、山崎豊子の「大地の子」を読んでいます。すごい熱量の本ですね。最初の1冊目はもう生々しすぎて、とても読んでいられない地獄絵図。なのに、何故か目が離せない、本が置けない。多くの小説は登場人物の会話の度に改行されて、文字が印刷されていない部分が結構多いのですよね。次々とページをめくって先に行ける。比較して「大地の子」は、こんなにドロドロした内容でも中々先に進めない歯痒さが、たまらない。  ふと気づくと、やっと小説が読める余裕ができたんだなあと。子どもが小さいと、どうしても自分の時間がないじゃないですか。ちょっとテレビを見るといった受け身の(見ているだけで自分では行動しない)時間は取れても、読むという積極的な行動が必要な時間は難しい。というか疲れ過ぎていて、何か行動をする労力が残されていない。私の子どもが少しずつ大きく成長してきて小学生になり、これだけの労力を要する本を読むまで体力が回復してきたなあと、しみじみ思いました。  「積極的な行動をさせる」ということは、ABAをしていると非常に大切な部分になります。逆に、一般的な教育ではあまり重要視されないことが多い。例えば従来の教育では、先生が一方的にお話をしているのを、生徒は大人しく聞いていることが多かった。聞いていた内容を、本当に理解していますか?確認できないのです。先生が黒板に書いて、それを板書することがあれば、生徒は積極的に書き写す行動をしているので、聞いているだけよりは良いです。ただし、黒板を書き写すだけでは、書き写した内容を本当に理解しているかは確認できません。結局テストをすれば、テストの問題に答えられる生徒もいるし、答えられない生徒もいて、ばらつきが生じる。  それでは「理解した」とはどういう意味でしょう?頭の中の状態ですよね。テストのような問題を解かせることも1つの行動ですし、発言させることも1つの行動ですし、何らかの形で行動をさせて、いわば頭での理解を言葉や行動に表現して初めて、それが確認できるのです。「理解」ということは1つの行動ではなく、入ってきた情報を、さまざまな形で行動としてアウトプットできるということなのです。ですから、最初からそのアウトプットの行動の部分を積極的に引き起こして増やす(強化する)ことが必要となる。  大学の授業では、例えば「ガイドノート」というものを私は使います。先生の講義を聞

集団ではなく個々のニーズを尊重する教育

 愛知教育大学の4年生向けの授業「教育相談の理論と実践」を担当することになりました。「愛知教育大学卒業」と言えば、名古屋・愛知県の教員では、出世頭ですよね。早く言えば、将来の校長先生や教頭先生を育てる大学です。そんなところで、私のようなABAという偏った考え方を持った専門家を、よく非常勤講師として採用してくれたと思います。繋いでくださったディスレクシアの会の吉田さんや黒川先生に、感謝してます。私の授業はもちろん一般的な教育相談の紹介もしますが、ABAもガツガツ取り入れて進めたいと思ってます。ABAも含めた幅広い教育の観点から様々な知識を学び、是非とも将来立派な校長先生や教頭先生になられて欲しい。  従来型の日本の学校教育はどうしても「出る杭は打たれる」というか、軍隊型というか、それぞれの個人のニーズよりも全体のニーズを優先させる雰囲気がありました。「皆んな一緒のことをすることが良い」と。しかし、歴史の授業でも「大河ドラマ見た?」と聞いても、ほとんど生徒が見ていないらしいです。もうクラス全員がテレビを見ていた時代ではありません。それぞれがYouTubeで好きな人のチャンネルを見て、歴史でも知らない子は何も知らないし、逆に特別な知識をたくさん持った子どもも育ってくる時代です。自閉とか発達障がいのような「癖の強い」生徒でなかったとしても、それぞれの興味や背景にも大きな違いが生まれていますから、それぞれの個性を無視した教育は成り立たない。個々のニーズを大切にするために、全体としてどのようにすれば皆んなが幸せに暮らせるのかを考える。まさにABAの「個々の行動の分析」が、教育現場でもやっと使ってもらえる時代になる・・・?それは何十年か後の話かもしれませんね。  ちなみに、非常勤講師として最初から「やらかして」しまいました。大学から授業料の振り込み先の指定をする際に、個人としての契約ではなく、会社との契約にして会社に振り込んで欲しいというお願いを人事課にしました。理由は、私は子どももまだ小さいですし、お金よりも子供との時間を優先したいから、できれば会社の時間内で働いて、会社にお金が行くようにして欲しかったからです。ですが、人事課からは「ダメです」と即答が返ってきました。どうしてですか?と質問すると「法律違反だから」との返答でした。いやいや、何をおっしゃる。前の大学でもやっていたし