tag:blogger.com,1999:blog-4058814432030519502024-03-14T18:57:16.884+09:00自閉症「ABA治療教育」相談日記自閉症に関連した日々の出来事を通して、自閉症児を持つ家族の持つ問題の理解を深め、今後の必要課題に対して認知を広めることが目的です。診断、治癒、回復、応用行動分析(ABA)、福祉の制度など様々な話題を取り上げ、治療教育に携わる専門家の立場から、簡単な疑問に答えたり、現在の福祉制度への疑問提起をしていきます。Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.comBlogger143125tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-63772641585774560612022-10-21T18:02:00.002+09:002022-10-21T18:02:32.520+09:00自閉傾向と問題行動の波<p> 先日ジムに行ってエクササイズをしました。エクササイズはずっと続けていたのですが、子どもができてから体力的にも追いつかずに、まあ要は怠けていたのですね。気づけばもう7, 8年はやっていないことに気づき、子どもが大きくなってくるとやっと自分に使う時間ができるのかと、少し感慨深くなりました。子どもが地域の老人から紙飛行機の作り方の教室のようなものに行っている間、え、親子同伴じゃなくて良い?え、その間何してても良いの?ということで自分のために時間を使ってみました。人生時間がある時もあれば、そうでないときもある。いろんな局面がありますね。</p><p> 発達障害の子どもを持つと、中々親の時間が取りにくい。長期的に考えると、意図的に自分の時間を作らないと長続きしないというか、頑張りすぎてガックリくるときもある。特に自閉の子どもの場合、問題行動が出てくる波があったり、突発的な行動の変化があるときがあり、親はそれに備えておく必要もある。特に、コミュニケーション力がそこまでではなく、かつ「こだわり」が強い傾向のある子どもの場合、やはりその「こだわり」が分かってあげられず、問題行動につながる時がどこかで出てくるのは、仕方がない。時々大きな問題行動の波がやってきて、辛いと思わざるを得ない時期があるのは、誰のせいでもないのです。</p><p> どういうことかと言うと、例えば子ども自身でしっかりやりたい、最後までやりたいと言う「こだわり」があると、勉強や学校行事の練習(運動会や生活発表会の練習)などで、頑張りすぎてしまう傾向があります。「疲れたら休めば良いじゃない?」と言うのが普通の反応なのですが、しっかりやりたい「こだわり」によって、気づいたときには爆発するぐらいストレスを溜め込んでしまうのです。かつ、コミュニケーションが上手でない子どもの場合、感情表現として表情に出にくいとか、言葉でももちろん言えない場合が多いので、普通の表情をしていてストレスが溜まっていることすら分かりづらい。例えばちょっと勉強課題が難しかったとか、いつもなら大したことのないきっかけにより突然大暴れになったりして、「ああ、辛かったのね」と気づくことになります。本当の理由は生活発表会で頑張りすぎているというストレスの積み重ねだったりするのですが、それが勉強課題の難しさで大暴れになるのですから、周りから見ても大暴れの理由すら分からないことも多いのです。</p><p> ストレスが溜まってしまった時は、生活リズムをとりあえず取り戻し、辛くなってしまった体をリセットする必要があります。このためには、もう休むしかないです。食べて、寝て、と言う基本を繰り返す。必要なら学校は休んでも良い。無理しない、頑張らない。誰も悪くないので、誰も責めない。ただ時間が解決するのを待つ。頑張りすぎるタイプの人は、時にそういう何もしないタイプの休養が必要な時はありますよね。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-84408793905711621202022-09-29T18:11:00.002+09:002022-09-29T18:11:35.702+09:00自閉と感情表現<p> 健康診断で血圧で引っかかりました。1回目に測った血圧が正常値だったから良いじゃんと思うのですが、2回目ダメなら「精密検査」と検査結果は出るんですね。心臓機能は自覚症状もなく悪くなることもあるし、やっぱり精密検査を受けた方が良いか、うーん面倒臭い。まあ年齢とともに色々と体の不具合が出るのも仕方ないですね。</p><p> 自覚と言えば、自閉の傾向がある子どもたちの多くが、自分の気持ちに対しての自覚が薄いと私は考えています。表情がもともと薄いというか、気持ちの上がり下がりが顔に出ない子どもが多くて、本人も自身の気持ちに自覚がないのです。周りの大人は表情から気持ちが読めないので、気持ち自体がないと勘違いしてしまいます。気持ちのあるなしは(心の中のことなので)結局は本人にしか分からないのですが、私の療育の体験からすると、感情自体がないのと仮定するより、気持ちへの<b><i>自覚</i></b>がないと捉えた方が行動の説明がつきやすいです。例えば人の物を壊すという問題行動がある場合「もしかすると、自分だけ物がもらえていないことを羨んで、それが欲しくて物を壊すという行動に出たのでは?」と推測すると、問題行動の対処は「それが欲しい」と要求させることだとわかりますし、かつ対処によって問題行動がなくなれば、その欲しい・羨ましい気持ちがあったこと自体の証明になります。他にも、感情の爆発(癇癪や大暴れ)があった時に「もしかしたら辛かったのかもしれない」と大人が気づくきっかけになることもあります。</p><p> 自覚がない子どもにいかに自身の気持ちを表現し自覚させていくのかは、教える側からは本人の気持ちが見えませんから、難しいですが重要なプロセスです。まずは状況と行動を観察して、問題行動の前に何が起こっているのか、感情を引き起こす何かがあるのか、しっかりと汲み取ることが一つ目のステップになり、ABA的には機能分析とも言います。また小学生になって大きくなってくると、いろんな形で頭の中のことや気持ちを表現させる手段を増やすことで、周りの大人も本人の心の中の変化に気付きやすくなります。絵日記はその手段としてよく使います。言葉にはなっていなくても絵を描くことで、楽しいことやストレスのあったこと、心の変化を表現し、周りに理解してもらうきっかけになるので、頻繁に小さなことから絵に描かせていく練習をさせます。例えば本を読んだ後で感想の代わりに絵を描いてもらったりして、どんな稚拙な表現でも良いので、何かしら外にアウトプットする機会を作るのです。</p><p> 絵だけでなく、自発の言葉全体を増やすことも非常に重要です。言葉の発達が遅れていた子どもが言葉を少し話し始めると、あまりに無意味な言葉だったり、ちょっとその場にそぐわないことを言ったりして、大人からすると「それはおかしいでしょ?」というような反応をしてしまいがちです。しかし自発の言葉は本人の頭の中では何か繋がって出てきてはいるので、なるべく聞いて自発の言葉を増やして(強化して)あげることが大切になります。徐々に言葉が増えてくると、「ああ、その言葉はそういうつながりで(そういう意味で)言っていたのか」とわかる瞬間が増えてきます。自発の言葉が増えてくると、本人の行動の意味合いが、問題行動が出た理由が、少しずつわかりやすくなってきます。こうなると子どもとのやり取りも少しずつ楽しくなってきます。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-24628941208904473972022-09-09T18:46:00.003+09:002022-09-09T18:46:54.459+09:00ABAと遊び中心の学習<p> 9月から私の子どもを転園させました。家庭の諸々の事情により、今までは送り迎えと給食のついた(親にとって楽な)幼稚園に行かせていました。親の余裕が少し出てきたので、送り迎えも給食もなくても、親にとって納得のいく教育をしてくれる幼稚園を選びました。転園前の幼稚園は規律を重んじる幼稚園で、転園後は遊び中心の遊んでばかりの幼稚園。子どもにとっては大転換です。通い始めて3日で違いが出ましたね。前の幼稚園に送り迎えに行くときは、うちの子喋らないんです。私が時々信号無視すると「赤だよ」と教えてくれますが、それ以外はほぼ無言。新しい幼稚園に変わって3日でよく喋るようになりました。「こんなに喋る子だったんだ」と思います。よっぽど緊張して幼稚園に通っていたんでしょうね。</p><p> ABAは、特にDTTという机上のレッスンをやる時は、「コンプライアンス」と言って先生の言うことを聞いて、その指示に従うことを教えます。なのでABAをやっていると規律を大切にするイメージが一般にはありますかね。でもABAには遊び中心のセラピースタイルもあり、どちらが良いとABAの中で決まっている訳ではありません。どちらも教え方のツールなので、場合に応じて適切に使うことが望ましいのです。ただ、遊びを中心に教えるのは、教える側の高度なスキルが必要です。「ただ遊んでいるだけ」に見える中にどれだけ学習の要素を取り込むことができるのか?上手なセラピストほど、ただ遊んでいるだけにしか見えません。特に自閉の子どもは興味の幅が狭く、同じことを繰り返してしまって遊びが広がらないのが一般に障害の特徴ですから、どうやって遊びへのモチベーションを高めるのか?どうやって遊びを柔軟で広がるものにしていくのか、セラピストの腕が試されます。</p><p> 一般教育でも同じです。私の子どもの幼稚園も、「ただ遊んでいるだけ」のようで、実はそこに先生方のスキルが光るものがあります。例えば生活発表会でも、私の子の通う幼稚園では、子どもが発表の内容を全部決めるんです。子どもたちが脚本家になり、自分達の好きなものをみんなで作り上げる。これを成功させるには、子どものモチベーションを上げる力、皆の意見をまとめる力など、先生には高度なスキルが必要です。名古屋でも一番と言っても良い歴史のある、有名な幼稚園です。昔は家柄の良い家庭しか子どもを通わせられなかった幼稚園だったと聞きます。しかし、今は送り迎えなし給食なしということで、定員割れです。こんな良い幼稚園が保護者に人気がないなんて「みんな、教育を見る目がないな」と思います。親に余裕がない事情もよくわかりますが。</p><p> うちの子どもも、遊び中心の教育でよく喋るようになりましたが、学習の進み具合は、自発の行動数に出ます。言われたことをするだけの受け身の学習を中心に行うと、自発の自由な発想、思考、発言などの機会がないので、自発の行動・発言が減ります。一方で、本当に上手な教育を行うと、遊びも「こうしよう」「あれもしてみよう」とどんどん広がりますし、自分で話す内容や数も増えます(自由な発想が培われたと言って良いでしょう)。自閉のお子様には特にこの自由な発想と発言の広がりが非常に大切です。受け身型のセラピーも学びの最初の一歩として非常に役に立つことが多いですが、長い目で見ると遊び中心のセラピーも非常に重要になります。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-33652321288652991732022-08-25T17:30:00.001+09:002022-08-25T17:30:22.546+09:00ABAと夏休み:頑張りと楽しみのバランス<p> 夏休みもそろそろ終わりに近づいてきました。夏休み、お子様をお持ちの皆様は楽しめましたでしょうか?コロナになってから数年になりますが、今年の夏休みもコロナの第七波とがっつりかぶってしまいましたよね。特に8月からは感染者数が多くなり、もっぱら近くの河原ばかりに出かけて虫を取ったり、自転車の練習したり、運動したり。今年は幼虫から成虫になったばかりの白いセミも見つけました。バッタもトンボもいっぱい捕まえました。子どもに、どこに行きたい?と聞くと「河原」と即答するところがかわいいような、可愛そうなような。</p><p> ABAをやっていると、特に早期集中介入というのは、1日6時間を週に5日とか、とにかく起きている間中集中して学習させるために時間を使う。だから、ともすると楽しむ時間なんかないような勘違いをされる場合もあるのですが、実は必ずしも「介入(療育)=辛くても頑張る」ということではなく、理想的には「介入(療育)=楽しみの中に頑張りが散りばめられている」状況になることなのです。ちなみに私の指導教官は、「強化子の海で泳いでいる状態」が療育であるべきだと話していました。まあそれは現実的ではないにしても、できる限り楽しい方が良い。</p><p> 発達に遅れのある子は、何事にも苦手意識が強い場合が多く、特に無理にやらされそうな匂いがするだけで、逃げ出してしまう場合もあります。例えば運動神経の良くない子どもの体力を伸ばそうと思った場合、苦手でもやはり運動させてあげて体力を伸ばしたい。しかし、とにかくダッシュの練習だ!と嫌がる子どもを走らせるのは、苦手意識をさらに強めてしまうこともある。走ることが目的ではなく、大好きな虫を捕まえるために自然にダッシュをしてしまうようなやり方の方が、特に運動が苦手な子どもには向いている。療育も同様で、できれば子どもの楽しい活動をやりながら、その中に頑張りの部分をバランス良く散りばめたい。ただし難しい点は、「子どもの楽しい活動の中に」といっても、発達障害(特に自閉の診断)があると、そもそも楽しい活動が中々見つからないことが多い。特に人と一緒の活動は、輪をかけて苦手な場合も多い。だからこそ、夏休みのような時には特に、人と一緒にやって楽しい活動を体験して、その喜びを見つけることにも時間を使いたい。</p><p> また、早期集中が終わって小学生に入ってからも、当たり前ですが、子どもってすごく伸びるんです。ABAでは早期集中がやはり中心になることも多いのですが、小学生の伸びが、これまたすごい。でも、特に症状が重いタイプの生徒が小学生で伸びるためには、保護者と、早期の療育の先生と、学校の先生と、教育と生活に関係する全ての人がチームになって成り立つことでもあります。ちょっとずつ好きなことを増やしてきて、ちょっとずつ頑張ることの喜びを体験させてきた努力の成果です。小学生の夏休みが終わりに近づき、「楽しい夏が過ごせました」と生徒の保護者からメールや報告をいただいています。これまで頑張ってきた成果だね、子どもも、お母さんも、頑張ったねと本当に思います。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-6075951128085984812022-08-19T18:20:00.001+09:002022-08-19T18:20:37.817+09:00強度行動障害に対する行動分析学からのアプローチ<p> しばらく前にも紹介しましたが、先のABAサービスと名乗る人物による傷害事件が起きたことにより、行動分析学会が7月31日に無料のオンライン公開講座「強度行動障害に対する行動分析学からのアプローチ:より正確な情報提供のために」と言うものを発信しました。それが100名限定ですぐに埋まってしまったとのことで、その後にオンディマンドでも視聴できるようになり、私も視聴させていただきました。</p><p> 講演内容が良かったです。2時間半くらいの動画なのですが、はっきり申し上げて内容は難し目です。ABAを専門とされていない方が、最初から最後まで全部見ようと思うと挫ける場合もあるかと思います。しかし中でも武藤先生の話は非常に分かりやすく具体的で、ABA専門の方でも興味を持って視聴していただけるかと思いますので、興味はあるけれど挫けやすい方や時間のない方は是非とも武藤先生の部分だけでも視聴されると良いと思います。</p><p> 武藤先生のご講義は、容疑者の方(…方って敬語を使う必要が?でも、まだ疑惑が確定した訳ではないので、犯人扱いはダメですよね。)の、youtubeにアップされているその方の講義の動画を出しならが、それを丁寧にABAの視点から解説されていました。講演会のようなこともたくさんやられている方なんですね。その方は、動画の中で非常にたくさんのABAの専門用語を使って講義をされているようで、それなりに勉強はされている感じでした。部分的にはABAの専門家から見ても「そうだよね」と言えるところもあり、何がおかしいのかな?と言うところから始まって、徐々に「ええ?それは違うんじゃないの?」となる部分が出てきて、また「その古い情報で…」と言うところもあり。普通に考えたらABAを使って「生徒に暴行」ってことはあり得ないのですが、結局は、ご自身の独自のセラピーのやり方を確立されており、それをABAの専門用語や専門書を引用して「正しいもの」と理論武装しているだけで、実際の「ABAのやり方・スタンダード」からは、かなり外れてしまっているものになっているようでした。</p><p> ABAの中でも「自己流」はある程度部分、あって良いかと思っています。しかし、それが「本筋」からあまりにかけ離れて元のものが分からなくなると言うことも、可能性としてはあることかと思います。私自身も、ABAの理論に基づいて、私なりの療育をしている部分もあります。この事件を通して「うーん。私のやり方も、放っておいたらこの人のように、ABAとは呼べない療育になっていってしまうのでは?」と自身のサービスに対しても不安になってしまいました。BCBAと言う認定を持っていると、必ず新しい情報を取り入れたり、学会などに通いながら、勉強を継続させることが認定更新のためには必要になります。自身の療育を、新しい科学的な研究を元に、アップデートしたり、自身のやり方をもう一度振り返ったり。こういった部分は専門家としては不可欠な部分なのかと再確認いたしました。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-47859259261692904802022-08-04T16:56:00.001+09:002022-08-04T16:56:13.650+09:00読書感想文ってどう書くの?:課題図書から感想文へ<p> うちの「思考表現のクラス」の7月の課題は読書感想文でした。今回選んだのは課題図書の一つでもある「ぼくの弱虫をなおすには」を選びました。1976年のアメリカのジョージア州が舞台になっていて、登場人物がトレーラーハウスに住むという状況設定や、黒人の人種差別がテーマになっていることなど、どうしても日本人には馴染みが薄く入りにくい感じかなと思っていたのですが、違いました。登場人物がちょうど4年生から5年生に変わる時の、思春期前の子どもの気持ちが上手に描かれていて、「いじめ」「怖いものの克服」「友情」など、文化を超えて共感できる内容が読んでいる日本の子どもにもすんなり入ってくるのは、翻訳の方が上手いんでしょうね。大人も楽しめました。とてもお勧めです。</p><p> トレーラーハウスという、日本で言えばプレハブとか小さな集合住宅的な、低収入の家庭が住むイメージのところに住む主人公、怖いものがいっぱいあって、イジメられがち。親友と一緒に怖いものをなくしていこうという設定。子どもの時ならではの、冒険的な楽しさもあり、怖いものもたくさん出てきて、最後まで目が離せない。私のところに来るような生徒さん、やっぱり挫けやすくて、怖いものもたくさんある子どもが多いです。主人公に共感できることもたくさんある。</p><p> 教室で読書感想文をするときには、1つ1つの章を読むごとに、感想を言ってもらいます。どんな下らない意見に思えても良いので、まずはその時々の気持ちを口に出して、それをノートに(付箋に)書き留めて、気持ちを残していく。最後まで読んで「感想」と言われても、その時の気持ちを忘れてしまうことが多く、まずは付箋にノートとして残して、気持ちを形に残すことから始めます。</p><p> KJ法って知ってますか?ビジネスとか研修とかでよく使うもので、皆の意見を1つ1つ付箋にしてホワイトボードに貼っていく。それを同じようなもの同士グループにまとめて行くんです。なので、自分の感じた気持ちの中でも、同じような気持ちをグループ分けしていくと、全体としてまとまりのある感想文の骨格が出来上がる。やはり最初のうちは、大人がそのグループ分けの部分はお手伝いが必要になります。感想文ですから「子どもの気持ち」を大人が勝手に考えてしまうようなお手伝いは良くない。でも、最初からまとまった構造の感想文なんてかけるわけがないですよね。こうやって自分の頭の中の感想を整理することのお手伝いをしてあげると、徐々に文章も上手になります。「思考表現のクラス」ですから、まさに思考のと表現のお手伝いをしてあげるのです。</p><p> 感想文ってどう書くの?やり方は色々とあると思います。子どもの年齢によってもお手伝いの仕方は違うとは思います。ABAでは「課題分析」と言って、複雑なことも少しずつのステップに分解して、スモール・ステップで教えるやり方をします。小学校高学年の子供であれば、まずは子どもが楽しめるような本を選んで、一緒に読むこと。そして子どもの感想をちょっとずつ貯めること、そしてそれをまとまりにある形にすること、こういったステップを追うと良いと思います。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-77657999980823928482022-07-29T18:03:00.001+09:002022-07-29T18:03:46.951+09:00虐待とABA、そして認定資格<p> 7月23日、日本行動分析学会からメールが届きました。内容は、「応用行動分析学に基づく療育サービスの提供をうたった団体による傷害事件」が報道されたとのこと。要は、ABAを語ったサービス提供者が傷害事件を起こしたということです。今後ABA療育に対する偏見が生まれる危険性があるため、それを防ぐために公開講座(無料)が緊急企画された(<a href="https://drive.google.com/file/d/1HrRbOxnJ86uPSTXLV8TRbh9OfzJgfc-M/view?usp=sharing" rel="noreferrer" style="color: #196ad4; font-family: "Helvetica Neue", Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 13px;" target="_blank">https://drive.google.com/file/d/1HrRbOxnJ86uPSTXLV8TRbh9OfzJgfc-M/view?usp=sharing</a>)というものでした。</p><p> 私もこの事件のニュースが報道されたことについて知らなかったので調べてみると、「手足を縛った上で頭を殴るなどの暴行を加え、監禁した」などとyahooニュースに出てきて、これが本当の事実であれば、こんな恐ろしいことが行われるなんて、怖い限りです。どうしてこのようなことになったのでしょう?</p><p> 大きく言えば、自閉の傾向のある子どもや若者は、他人とコミュニケーションを取ることが苦手です。気持ちがうまく伝わらないイライラから、人に対する強い攻撃行動や、自身に対する攻撃(自傷)行動に至ってしまうことも、残念ながらしばしばあります。人のことを攻撃してしまう行動は、本人のためにも将来絶対に続けて欲しくないので、「絶対にそれは良くない」ということを固い表情や強めの言い方で、私は伝えます。楽しい活動をしていれば、一旦それも中断します。もちろんそれ以外の場面で、適切な行動を何十倍も褒めることが前提として必要です。コミュニケーションが難しい人に対して、手足を縛るとか、殴るとかは、もちろん人権上あってはならないだけでなく「人とコミュニケーションを取ろう」という動機を余計に下げてしまいます。今回の事件は、問題行動があったから手足を縛ったのかも不明なので、一体どのような経緯でそんなことになったのやら。</p><p> 本来ABAを使う場合、問題行動がある場合、どうしてそのような行動をするのか?行動の起こる理由を分析して、その理由に対応した策を考えます。(行動の起こる理由の分析を機能分析と言います。)例えば欲しいものが手に入らないなら、要求する方法を教えます。活動をやりたくないのであれば、活動自体の選択肢を増やしたり、簡単にしたり、工夫を考えます。問題行動が起こる理由そのものをなくしていく方向性が最近のABAになります。ですから、問題行動が起こった後で、それに何かしらの対処をすることで行動を減らす、という発想をするとしたら、そもそもその発想が間違っているのです。</p><p> アメリカではABAの認定があって、BCBA(行動分析士)と言います。カナダやイギリスなど、その他の国でも同じ認定を使うことができます。私も認定を受けた一人で、今日本人でも20人ちょっとくらいいると思います。ABAの資格(認定)が存在することで、倫理的におかしいサービスを取り締まることができますが、日本では認定や資格が存在しません。認定があるからといって必ずしも質の高いサービスや倫理観の高いサービスを保証するわけではないですが、最低限の倫理観や教育・スーパーバイズに関しては、質を保つことができると思います。現在の日本では、ABAのサービスを語った事業所が増えています。しかし、保護者にはその事業所がどんなABAの訓練とスーパーバイズを受けているのか、わからないという状態にあると思います。日本行動分析学会は現段階で認定や資格にどちらかと言うと消極的なようですが、事件が起きた後の「フリー講演」に加えて、そもそもそういうことが起きないためにも、資格・認定の設立に向けて動いて欲しいです。</p><div dir="ltr" style="caret-color: rgb(29, 34, 40); color: #1d2228; font-family: "Helvetica Neue", Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 13px;"></div>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-25200642550207574132022-07-27T16:20:00.004+09:002022-07-27T16:20:54.178+09:00公認心理師試験とユニバーサルデザイン<p> 先日公認心理師の試験を受けに行ってきました。名古屋駅から近い「ささしまライブ」というちょっとオシャレな感じのところにある、愛知大学が試験会場でした。新幹線から愛知大学の看板は見たことがある方もいるはず。受験票に昼食持参の指示があったので、おにぎりでも買おうと思っていたのですがコンビニが何故か見つからず、ちょっと遠回りしてまで行ってみたコンビニでは偶然おにぎりがほぼ売り切れで、朝からスムーズに事が運ばない。到着すると、愛知大学の前は長蛇の列が遠くまで見える。へえ、こんなに公認心理師になりたい人いるんだ、と自分も受けておきながら思ってしまいました。何だか嫌な予感。</p><p> 列の後尾に並んでそのまま移動すると、隣のビルまで行って、また戻ってきて、9時前に到着していたのが、最終入室時刻の9時20分を過ぎてもまだ建物内に入れず、9時40分くらいにやっと入室できました。さて、トイレにでも行って、受験票を用意して。受験票をよく見て見ると、鉛筆は自分で用意・・・。しまった!私の筆箱を開けてみると、いつものペンとマーカーとハンコ。シャープペンや鉛筆って、教室で仕事するときに以外では使わないんですよ。ああ、試験はマークシートだったんですね…久しぶりに昭和な感じ。私の最後に受けた資格試験最終はもう20年も前のアメリカでのBCBA(認定行動分析士)の試験。コンピューターで試験を受けるんですよ。試験場でそれぞれのコンピューターに向かって、クリックする。日本はまだ何十年も前から試験のスタイルが変わっていないんですね、って受験票ぐらい読んでおけよ!読まないんですよね、私。馬鹿だなあと自分で自分に突っ込みながら、今更ながら受験票を読むと「貸し出しは一切致しません」と書いてある。あーあ。しかもスマホは使用禁止なので、腕時計も必要と。普段スマホしか使わないから、腕時計なんて皆持ってないでしょ?部屋には時計がない。愛知大学さん、時計入れようよ。がっかりしながら試験官に「あの〜。貸出しないとは書いてあるんですが、鉛筆がなくて・・・」というと、鉛筆一本と消しゴムを貸してくれました。ありがとう(涙)って、鉛筆一本かい?途中で折れたらどうするんだろう?・・・まあ忘れた私が悪いんだから仕方がないのですが。とほほ。時計がないから時間も分からないし。最初から波乱の幕開け。</p><p> 試験の説明が始まると、問題が配られてもまだ開かないでくださいとか、マークシートはしっかりと塗りつぶして、消す時は消しゴムでしっかり消すとか、皆が一斉に始めるまで4、5分待たされたり。みんな、シーンとしながら待ってるんです。そして一斉に開始する。すごいですよね。皆指示に従える。ああ、そう言えば日本の教育はそうだった、と昔の学生生活を今更ながら思い出しました。何でも全員一斉にやるんですよね。気持ち悪い。コンピューター試験なら、自分のタイミングで勝手に始めて、時計もついてて、終わったら即座に「Pass(合格)」とか結果も出る。集団生活が苦手な私のような人、忘れ物の多い私のような人、皆と一緒に一斉にやることに疑問を感じる私のような人には、コンピューターの方が圧倒的に楽なんです。ちなみにそれを「ユニバーサルデザイン」と呼びます。発達障害の人とか、うまく集団適応できてない人とか、どんな人にも合わせやすい教え方だったり、試験だったり。ユニバーサルデザインも、もちろん公認心理師の試験範囲に入っています。ただ、公認心理師の試験は、明らかに配慮がない昭和なままの試験スタイル。結局ユニバーサルデザインの意味なんて言葉上だけで、本当は分かってないということでしょう?・・・なんてね。負け犬の遠吠えです。って言うか、マークシート早くやめようよ。塗りつぶす時間と手間、無駄じゃない?</p><p> 試験の内容も、うーん、最初から「分からん」と唸ってしまう問題ばかり。大学でカウンセリングや教育相談の授業も教えてきている心理の専門家のはずなのに、全然分からんのもどうかと思いますよね。そうだよ、結局内容を知っているか、知っていないかではなく、試験に向けた対策をした人が受かるものですよって、また負け犬の遠吠え。そうですよね。しっかり勉強した人が受かってもらって問題はないです。というか、私よりも真面目に勉強した人が受かるべきです。やっぱり試験対策が足らなかったよね。</p><p> お昼ご飯はコンビニでおにぎりが買えずに、レンチン用の長期保存できる「肉巻きおにぎり」を買っておいたら、やっぱりレンチンせずに食べると、硬いんですね。何だか腹に溜まる。昼食後の試験は午前よりもさらに調子が悪い。あーあ。これを読んだ方、「そうそう、公認心理師の試験、受かりました?」なんて聞かないように。</p><p> ちなみに昼食後の昼休み、鉛筆一本なのも、時計がないのも嫌なので、近くのコンビニに行ってきました。すると、私とまるっきり同じものを購入して、私よりも焦ってそうな人物が。やっぱり私だけじゃないよ、忘れ物が多い人。そうだ。頑張れ、世の中の不適合者たち!</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-24067242257718224912022-07-15T18:06:00.000+09:002022-07-15T18:06:17.120+09:00学校教育と自殺、多様性の教育へ<p> 今週私の担当する大学の授業は、自殺問題でした。教育大学での授業ですから、将来学校の先生になられる生徒さんも多いです。まず新聞記事を読んで、学校の担任の先生の注意叱責がきっかけとなり生徒が突発的に自殺したと言うケースから授業を始めると、生徒さんも真剣に話を聞いていました。学校の先生になるって何て大変なことでしょう?先生の「良かれ」と思ってした指導がきっかけとなり、多感な時期の生徒を自殺に追い込んでしまうこともあるのです。それぐらい責任の重い仕事です。みんな良い先生に育って欲しいと切に願う。ちなみに日本の子供の自殺率、先進国中一番高く、病気よりも多く一番の死亡理由が自殺だってご存知でした?自殺率の圧倒的に高い日本、どんな教育制度なんでしょうね。</p><p> 気になるのは、世の中の変化に学校がついていっていないと感じることが多いこと。うちの教室のハーフの生徒さん、お父さんはオランダ人なので「世界一」と言われる教育を受けて育っています。自身の子供の参加する日本の軍隊式の運動会を見て、「日本はすごいね」と皮肉っぽく笑われてしまったようです。みんなが右向けば右を向く、軍隊のように行進し、参加しない時間も「応援しなさい」と叱られる。多様性が叫ばれる現代にあって、そんな昭和な運動会がまだ存在して良いのでしょうか?無理に競争させられて、みんな一様に行動することを強制させられて、これでは多様な社会を生き抜く人材を育てることができないと思います。</p><p> 引きこもりや不登校も、こういった「みんな一緒でなければいけない」無言の圧力が大きな理由になっているのではないでしょうか?特に私の教室に来られるような発達障害のある生徒たちは、皆と同じようには行動できないことが圧倒的に多い。「一緒の行動をする」と言う意味では圧倒的に外れてしまうわけです。私もアメリカに行ってるぐらいだから、かなり日本の標準行動からは外れているタイプ。幼稚園に土足で入って「土足で入る先生」と噂されていたことも。でも活躍できるところもあるんです。人と違うと言うことは、悪いことではない。要は、そう言う人であっても、活躍できる社会が必要なんです。ちょっと他の人と違うからと言って問題児扱いされる環境自体が問題だと思います。</p><p> 多様性のある学校では統率がつかない?そんなことはないのです。私はよく「みんな頑張る」と言う目標を使います。みんな「それぞれのレベルで」頑張れば、別にみんなが同じ目標で頑張る必要はないのです。例えばADHDの子どもが座っていられなかったり、自閉系の子供が突然勝手なことを話し出してしまったり。ADHDの子どもなら、その子が10分座るのは、定型発達の子どもが50分座るよりも、よほど頑張っている可能性が高いのです。その子は10分経ったら少し席を立って、何が悪いですか?自閉の子供が時々突然話し始めて、「それが普通」として、何が悪いですか?定型発達の子がずっと黙っているのと、その子が10分黙っているのと、その子の方がよっぽど頑張っている可能性だった高いのです。時々専門家として、「この子を座らせて欲しい」と言うような要望を受けることもあります。でも、本人ではなく逆に環境が悪いこともあるのです。皆がそれぞれの特性を理解する、それぞれのレベルで頑張る、こういった教育環境が必要なのです。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-69115762970783890192022-07-08T15:28:00.000+09:002022-07-08T15:28:03.785+09:00七夕と「おこだでませんように」:褒める力<p> 今週は七夕でしたね。年々夏が早くなり、今年の教室は七夕をすっ飛ばして7月からお祭りをテーマに活動を進めてますが、七夕の日にはやはり「おこだでませんように」の絵本は読みました。いい話ですよね。いつも先生からもお母さんからも叱られてばかりいる子どもの話で、情緒の問題で教室に来ている生徒には、だいたい毎年読んでいます。子どもの方も、特に叱られているシーンとか悪いことをしているシーンは、じーっと見てます。自分を重ね合わせたりしてるんでしょうか?何か感じるところがあるのでしょうか?そこまでは詳しくわかりません。</p><p> ネタバラシになってはいけないですが、主人公の叱られる子供が「僕も本当はええ子って褒められたいんや」と言っているシーンがあります。私たちの教える発達障害の生徒は、素直な気持ちをそんな風に言ってくれる子は1人として見たことはありませんが、ほぼ全員の子供がそう感じてはいるなとは思います。すごく子どもの気持ちを捉えて代弁してくれている本だなと思います。なぜ褒められたいとこちらが推測するかというと、理由はやはり、褒められ続けてくるとできることが増えて、全然行動が変わってきたり、表情が変わってきたり、素直に嬉しそうな顔をしなくてもニヤリと笑うようになってきたり。褒めることの力によって、こんなに変わってきたかと、本当によく思からです。そうだよね。みんな褒められたいよね。</p><p> 自閉スペクトラム傾向のあるお子さんの行動特徴的は、犬よりも猫ですね。褒められて素直にぴょんぴょん喜んだり「もっと褒めて」と来るよりも、ちょっとニヤッとするだけだったりします。大好きなお母さんが来ても、ニコッとせずにしれっとしています。ママのことあんなに大好きなのに、素直になれよ。逆にこちらが注意を逸らして他ごとをすると寄ってきたりしますが、こういうの「ツンデレ」って言うんですかね。だから、「本当は褒められたい」と言う気持ちをわかってもらえないことが多いんです。一般の先生からすると、この子は本当に悪いことばかりして、なんで良いことして褒められたくないんだろう?と思ってしまうのも、分からなくはないです。</p><p> でも療育の仕事をしていると、段々とそう言う特徴がわかってきます。素直になれないその感じ、ツンデレがたまらなく好きになってきます。どうやったらこの子を笑顔にできるか?どうやって褒めるところを見つけて、どうやってちょっとずつそれを伸ばしていけるか?それが私たちの仕事です。保護者からも「だって褒めるところが見つからない」と時々言われてしまいます。いや、無理にでも見つけるのです。本当にちょっとのことでも褒めるんです。「当たり前」のことなんて、何もない。それすごいねって、毎日一生懸命褒めるんです。この積み重ねが大きな違いを生んで来ます。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-13252389194049055152022-07-01T18:38:00.002+09:002022-07-01T18:38:37.317+09:00ABAセラピストの教育:BCBAとRBT<p> 今職員が入れ替わりの時期にあります。名古屋の教室から東京の療育センターに転勤になった職員、出産のため産休をとった職員、結婚退職した職員、次の人生計画に進んだ職員、あれよあれよと小さな教室からバタバタと人がいなくなり、そして誰も・・・ではないですが、びっくりするぐらい同じタイミングで人が去っていき、本当に寂しい限りです。しかし人生いろいろですね。教室から巣立って他の場所で活躍されるのは素晴らしいことですし、喜んで見送ってあげようじゃないですか。そして今日、教室に新しい職員がやってきました。嬉しいですね。捨てる神あれば拾う神あり。なんだかポジティブな気分。さらに嬉しいのは、新しい職員と言っても、同じ会社(エルチェ)の神奈川の事業所から転勤してきてもらった職員なので、既に5年の経験もあり、頼りになります。若くて頼りになりる人がこのタイミングで転勤してくれるなんて、なんてラッキーなんでしょう。今日は教室のみんなも、いつもよりも前向きな感じで…って、いつも後ろ向きじゃないってば。</p><p> さて、ABAのセラピストってどんな人でしょう?日本では「ABAセラピスト」ってざっくりすぎて、どんな訓練をされるのかイメージがわかないと思いますが、アメリカでは大きく分けて2種類います。BCBAのレベルとRBTのレベル。BCBA(行動分析士)のレベルは、大学院まで出た専門家。ABAのプログラムを監督(スーパーバイズ)し、現場で生徒を教えるセラピスト(RBT)を訓練し、その質を保つための専門家。RBTのレベルは、40時間以上の訓練を受けた人になりますが、それだけの訓練では自身で判断し分析することは難しいです。BCBAレベルの人が常にスーパーバイズを行い、そのセラピーの質を担保することが必要になります。今私の教室でも、実際に海外の大学院を卒業して、私の元で実地訓練を受けてBCBAに育てたセラピストが1人卒業して、今まさに私の元を巣立っていきます。BCBAですから、自身で考えて分析し、人を監督するレベルです。巣立った後、ある意味守られた私の教室以外の場所で、今後もしっかりと活躍して欲しいです。</p><p> 日本では実際に海外の大学院を出てBCBAを取るのは難しいですよね。日本でも日本の大学や大学院で ABAを学んで、その後私の教室のような場所で実地訓練を受けて、BCBAに準じるレベルに成長される方もおられます。また大学院などまで行かなくても、RBTに準じるレベルで、スーパーバイザーの監督の元、現場のセラピストとして大きく活躍される方もおられます。ちなみに日本ではABAの講座やワークショップ等を受けてABAの訓練を受けても、スーパーバイズを受けずにセラピーをされている場合が多いので、気をつけると良いでしょう。</p><p> ABAは資格がなくても、例えば保護者でも色々と使える要素がたくさんあります。素人でも色々と取り入れることができることがたくさんあります。ただし、何か困ったときに問題をうまく解決できるのは、RBTレベルの人ではなく、BCBAレベルの訓練を受けた人なのです。難しいケースほど、BCBAレベルのスーパーバイザーの威力が発揮されます。やはり根本的な考え方がABAは他のセラピーと大きく違うので、数十時間の訓練では、しっかりと分析力をつけるには足りないのです。実際の現場で言うと、RBTレベルの人だけだとうまく行かないこと自体に気付けない場合も多く、ただ子供が何となく楽しそうなら保護者が満足度も高く、それで事足りてしまうのでしょう。ただし専門家からすれば、見た目が良くても良いセラピーとは限らず、逆に子供がそこまで楽しそうでなくて、非常に良いセラピーであることも、しっかりと見抜けます。センスの良いセラピストがしっかりとしたセラピーをやってくれる「当たり」に出会う確率が、専門家のスーパーバイズによって格段に上がると考えて良いでしょう。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-84820698862270773412022-06-24T17:04:00.001+09:002022-06-24T17:04:12.185+09:00視線合わせ:共同注視と動機について<p> 今日、うちのひまわり教室の2歳の生徒が「あ」と言って教室のカレンダーを指差し、私の方を見ました。指差したカレンダーを見ると、「はらぺこあおむし」のちょうちょが描かれていました。「お、あおむしのちょうちょ見つけた?」と言うと、保護者の方から説明がありました。教室で「はらぺこあおむし」の絵本を読むようになって好きになり、最近は自分で絵本のページをめくって読むようになり、最後のちょうちょになるシーンで、「あ」って言うようになったとのこと。納得。確かにそのページは「あ、ちょうちょ あおむしがきれいな ちょうちょになりました」でしたね。まだ言葉が数語出てきている状態なので、「ちょうちょ」と言える時もあるけれど、「あ」は「ちょうちょ」と比較して、簡単に安定して言える音だったんですね。</p><p> 実はこれ、発達に障害がある子どもにとっては、すごく大切な「共同注視」というスキルで、他の人が指差したものを見ることと、子ども自身から指差して相手に見てもらうこと、その両方を含みます。人とのコミュニケーションを取るには、同じものを見ていると言うことは不可欠なスキルなのですが、発達に遅れ、特に自閉傾向がある生徒にとっては非常に難しいスキルになります。人が指差したものを見ることも、自分から「見て見て」と何かを指差すことも、非常に稀なことなんです。指差しは発達の指標の一つにも入っています。特にトリッキーなのは、自分から指差しする方です。元々「見て欲しい」と言う要求がない場合、指差しして「見て見て」という行動だけを教えても、自分からはやるようにはならない。当たり前ですよね。行動のその背後の動機の両方が大切なのです。これを教えるには、指差しをして人から注目してもらい「ああ、人から見てもらえて嬉しい」と体験させることが非常に大切で、これを通して「もっと見てもらいたい」と動機が高まり、自発で行動するようになるのです。</p><p> また、指さし(共同注視)だけでなく、「あ」と自発で音声を発することも、声を絞り出させてあげられるわけではないので、お手伝いができない。その行動を引き起こせなければ、強化して増やすこともできない。ですから、自分から言いたい(自分の言った音が聞きたい、もしくは音を言って他の人に聞いてもらいたい)動機が高まらなければ、偶然音が出た時に強化する以外はないのです。</p><p> この子どもがちょうちょの絵を見て「あ」の音を言うようになったのは、「ペアリング」と言う手続きによって習得されたとABA的には分析されます。「ペアリング」とは、好きなものと中性と言うか普通なもの(それほど好きではないもの)が一緒に組み合わさることにより、普通なものも好きになること。この場合「はらぺこあおむし」が好きなもの、「あ」と言う音が普通なものになります。繰り返し絵本を読みながら「あ、ちょうちょ」と絵本のちょうちょと「あ」の音が一緒に提示(ペアリング)されることにより、「あ」の音が好きなものに変わったので、その音を聞きたくなった(動機が高まった)と考えるのです。</p><p> 実は教えることは、行動自身を教えるだけでなく、その動機の部分を分析することが非常に大切で、特に自発の行動は、大人が指示した時にではなく、子どもが好きな時に自分でする行動なので、動機の分析が不可欠になるのです。「あ」と言えれば良いのではなく、それを適切な場面で自分から(自発で)言って、初めて子どもにとって本当に意味のあるスキルとなることって、実は多くあるのです。</p><p> ただし、多くの場合教育者は(そして保護者も)「あ」と言わせることに満足してしまうのです。こちらが「あ」と言った時に「あ」と真似すること。これは、ちょうちょを見て「あ」と言うことと専門的には全く違うスキルなのですが、親からすれば早く話せるようになって欲しい焦りから、「あ」が言えたら「い」と次から次へと言える音だけを増やしたい気持ちが高まってしまうことが多いのです。教育者も、その親の言うことを聞いて、次々と音だけを増やそうとすることに時間を費やしてしまい、実は本当に大切なコミュニケーションは何も伸びていないと言うことは、よく見られることなのです。急がば回れと言いますが、本当に使えるスキルをしっかりと伸ばすことに力を入れましょう。ABAに関わらず、本当の教育者は、しっかりとこの辺を見ています。親は、単純に行動だけを増やそうとするタイプの教育者に騙されない目が必要になります。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-71873109686341183192022-06-17T17:24:00.000+09:002022-06-17T17:24:04.947+09:00発語のない子どもの教え方:言葉の発達の促し方<p> 今「ドラキュラ(Dracula)」の本を読んでいます。ドラキュラは、Bram Stokerという人が1897年に発表した小説で、トランシルバニアのお城とイギリスを舞台にした吸血鬼の話なんです。へえー、元々小説だったのね。英語で読んでますが、内容はかなり面白いのに、やっぱり英語だと日本語よりも頭を使うんでしょうか、疲れるんですよね、中々進みが遅い。アメリカには12年以上住んでいたので、特に大きな問題なく英語で会話してお仕事もこなしていたのですが、それでも帰国子女ではない私に取っては、英語での完全なるリラックスは難しいかもしれない。帰国してもう7、8年経っていますし、英会話も久しぶりだと言葉も出遅れますね。中々思っている単語が出て来ない事も多い。…!ただの老化?</p><p> 言葉の発達を促すのは、自閉スペクトラム症(ASD)診断を受けた子どもにとって、そしてその療育をしている者にとっても、永遠のテーマです。ABAの療育でもほぼ無発語から普通級に通うようになるまでに成長する子もいれば、無発語のままである事もあります。自閉の診断を受けて教室に通う子どもの中でも、無発語だったり、そもそも発声自体が少ないタイプのお子様は、ある程度の割合でいます。「言葉が話すことができれば…」「何とかしてこの子に話すようになってもらいたい」と言う目的でABAを探して来られる方も少なくはありません。しかし無発語で、かつコミュニケーションの意思自体があまりない場合、ABAや言語聴覚士などの専門家についても、やはり言語習得の道のりは簡単ではありません。</p><p> 理由の第一は、発声をお手伝い(プロンプト)してあげることができない。他の行動はこちらが手を取ったりして動かしてあげて、「こうするんだよ」とやらせてあげる事も可能です。でも、声ばっかりは首を絞めて絞り出してあげるわけにもいかない。声は、自分から出すのを待って、出た瞬間に強化する以外にないのです。発声の行動を強化する一つの方法を逆模倣と言います。子どもが声を出した時にそれを大人が真似してあげる事です。場合によっては、「あー」と言っただけでも、「あー、雨だね。お話できたね。」とその時に適切な言葉に(もしかすると雨の意図で言ったわけではなくても)替えて言ってあげると、より自然に褒めることも可能になります。まずは全体の発声の頻度を上げた上で、徐々に「シェイピング」と言いますが、適切な言葉に変えていく。たとえばアンパンマンのおもちゃが欲しい時は、「あー」だけでなく「あん」とアンパンマンに少しだけでも近づいた時に強化する。徐々に最終目標の「アンパンマン」に近づけていく。気の長い話になってしまいます。お手伝いができない場合は、時間がかかるのです。だから、ABA療育は非常に長時間の療育時間を必要とする、もしくは保護者が家庭でちょっとでもその練習機会を増やしてあげる必要があるのです。</p><p> 理由の第二は、似ているかもしれませんが、練習の機会が少ない事です。元々喋っていないのですから、強化する機会が本当にない。たくさん強化をして行動を少しでも多く増やしたい。でも、行動が起こっていないと強化はできない。また自閉傾向が強い場合、興味自体があまりなくて、コミュニケーションを取ろうとする意図がほとんどない場合も多い。たとえば定型発達の子は、喋らなくてもあっちを指差し、こっちを指差し、見ているもの、興味のあるものを伝えてくる。でも、自閉スペクトラム症の子どもは、こういう気持ちの共有自体がほとんどない場合が多い。こうなると、コミュニケーションの練習の機会が非常に少なくなってしまいます。</p><p> 言語でなくてもコミュニケーションの強化の機会を作るために、代替コミュニケーションというのを使います。たとえば、手話、PECS(絵カードを使ったコミュニケーション)、ジェスチャーなど、言葉で言う代わりに他の方法で伝えるのです。「写真を手渡してコミュニケーションすると、欲しいものが手に入る」「コミュニケーションは楽しい」と言うことが体験できると、たとえばPECSのように発声を一切使わないコミュニケーションを使っていても、実際に発声が増えると言う研究結果も出ています。実は、コミュニケーション全般を増やすことが、遠いようで発語・発声というものを増やすことにもつながるのです。</p><p> また、要求のような直接何かが手に入るような体験だけでなく、音って、言葉って楽しいという体験も非常に大切になってきます。教室では、楽しい活動をして、その時にいろんな言葉(擬音語や擬態語も含めて)のお手本を見せます。要求だけでなく、遊びの中で楽しい音から真似して発声が増える場合も多いのです。専門用語では「ペアリング」と言いますが、その音と楽しいことが一緒に現れることで、音自体の価値が上がることを言います。たとえば、テレビ番組の言葉や歌から発語が始まる場合、ありますよね。音(言葉)を聴きたいから、自分で言う。こう言う楽しい活動をたくさん見つけてあげる、一緒に遊んであげる、こう言うことも、遠回りのようで言葉の発達に非常に重要になるのです。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-83596867667840097702022-06-10T18:50:00.002+09:002022-06-10T18:50:28.362+09:00執行機能 Executive Function<p> 色んな仕事が分刻みに飛び込んできて、何しているか分からなくなること、ありませんか?仕事をしていて顔を上げると職員と目が合って「教材を作ったのでチェックしてください」と声がかかる。教材をチェックしている内に名古屋市役所から電話がかかってきて対応する。電話の対応が終わってコンピューターを開ければメールが山積みで、返答を始める。返答が終わらないうちに、また次の職員から声をかけられる。あれやって、これやって、気づけば時間が過ぎていて、私がやる予定だった仕事が一つも進んでいない。私はキャパが大きい方ではないので、仕事があまりに多いと、だんだん何をしているのか分からなくなってきます。「キャパオーバー」状態の人って、周りから見てもわかるんでしょうね。職員も気を遣って「これチェックできますか?でも、時間がある時で大丈夫です。」と言ってくれます。優しいのね。でも、時間がある時っていつのことやねん?今やらずにその仕事を放っておくと山積みの仕事の中で忘れ去られてしまう。「3歩歩くと忘れちゃうので、今チェックします。」といつも答えています。本当に3歩歩くと他の仕事が入ってきて、さっきまでやっていた仕事が中断させられてしまうことも多い。夕方になって「ああ、今日も何も成し遂げられなかった・・・」とガッカリして家路に着くことも多い。ああ、中年の中間管理職って・・・。</p><p> そんな何も成し遂げられない私にピッタリなのが、今月の教室のテーマ「執行機能」です。認知機能の一つですね。簡単に言うと、レシピに従って料理をするとか、活動を段取りよくこなすことに関連する働きを言います。活動を段取り良くとか、上手にスケジュール管理するとか、そもそも苦手な人って私だけではないはずです。また、歳をとって脳機能が衰えてくるとこの執行機能も失われてくることが多く、例えば認知症予防のために料理をすると良いと言うのもこの執行機能の訓練になります。執行機能は「非認知能力」の一部とも呼ばれます。知能や偏差値に関連する認知能力ではなく、実はこのような「非認知能力」が将来の成功につながると言われています。障害や年齢に関わらず、この機能の訓練は多くの人に役に立つことと考えて良いでしょう。</p><p> 発達障害で言えば、複数のステップを順を追ってやっていくことって、気が散りやすいADHDの子は一般に苦手なことが多いのはイメージしやすいですよね。他にも、二つのことを同時進行しながら行うことなども、自閉スペクトラム症(ASD)の子は苦手と言われていたりします。ABA的には、何かを完成させることに必要な行動の連鎖が上手くいかないことを言います。忘れ物が多い、すぐに気が散ってしまう、遊びをしても一つのおもちゃを出したら、それでしっかり遊ぶ前に次の遊びに移ってしまう・・・自閉症児「あるある」でしょね。</p><p> 執行機能は必ずしも「はい、これで完成です」と出来上がるものではなく、少しずつ伸ばし、気がつけば色々なことができるようになっているタイプの力です。その進歩がすぐには目に見えにくい。しかし、やはり小さい頃から意識して少しずつ訓練することで、将来大きな差を生んできます。例えば、モンテッソーリなどの教育でも、いろんな遊びに没頭することを促していきますよね。没頭して行うさまざまな遊びを通して、執行機能が鍛えられてくるのです。他にも工作を楽しむことや、想像的なごっこ遊びをしたり、いろんなステップを追って長く遊ぶこと自体が、非常に大切な執行機能の訓練の機会の一つになってきます。ただし、勝手に遊ばせておいて、放っておくだけではこのスキルが伸びるとは言えず、おもちゃの選び方や配置の仕方、そして促しの仕方、お手伝いの仕方など、多くの配慮が必要になります。子どもの療育では、遊びを通して意識して執行機能を鍛えることで、遊びが非常に大切な学びの場になっていくのです。</p><p> この遊びを通した教育が、親からすると逆に不安になる場面があります。親からすると、できる限りたくさんのことを学んでほしい。今は子供に複数の習い事に通わせるのが普通になってきています。サッカー教室、英語教室、書き方、ピアノ、いくらでもあります。「これも教えた」「あれも教えた」と、一つ一つ教えたことがはっきりしていた方が、親は満足感があるのでしょう。しかし、一つ一つ教えたことをリストアップして親が満足していては、もったいないのです。意図的に執行機能を鍛える遊びの時間をしっかりと作ってほしいのです。例えば上手な先生が遊びをリードしていくと、遊びの環境の配慮やお手伝いの配慮を非常にスムーズに行えるので、一見「何もしていない」ように見えるでしょう。それよりは、英語教室に行ったほうが、少しでも将来の勉強の足しになるかも・・・と思えてきてしまう。でも、小さい頃から英語教室通って英語喋れるようになった人、何人知ってます?そんな小手先のことよりも、まずはしっかりと遊ぶこと、そしてその中で非認知能力を鍛えることが、非常に大切になってくると思います。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-1818224783353498262022-06-03T18:38:00.002+09:002022-06-03T18:38:48.781+09:00関係反応:言葉のつながり<p> うちの子どもが私に聞きました。「パパは大きくなったら、何になるの?」私は答えます。「そうだねえ。パパは何になろうかな?じゃあパパは、アイドル。歌って踊れるアイドルになりたい。(父踊る)」子「ええ?アイドル?女の子がなるんじゃないの?(笑)」父「女の子?男の子もなれるよ。」子「でもパパって、何で大人なのに何にもならないの?」父の内心(私って、何にもならなかったのか・・・?)父「じゃあ、パパはいつも何してると思うの?」子「パパは、お仕事行って、働いてる・・・(笑)あ、そうか。」</p><p> 子どもの理解ってどんな感じなんでしょうね。確かにお仕事と言えば、消防士とか、お医者さんとか、電車の運転士とか、普段から子どもにとって身近な職業を思い浮かべるかもしれない。ちなみに、この「パパは大きくなったら何になる?」の質問は、結構何度も聞かれています。その度にアイドルとか適当な返答はしています。そう言えば、それよりちょっと前は、「パパ今日お仕事で何するの?」の質問をよくしてきていた時期もあり、「今日は教室で、工作でちょうちょ作ったよ」とか、「これは教室で歌っている歌だよ」とか、そう言う情報も与えていたかもしれない。教室で工作を作ったり歌ったりして遊んでいると思ったかもしれない。そう言われれば真実からそう外れてもいない。でも、「パパのお仕事は子どもに教える仕事だからね」とも伝えているとは思うのだけれど・・・。</p><p> 言葉のつながりは難しいです。新しいことを教えるというのは、新しく教えた言葉と過去に教えた言葉とがつながって、理解のネットワークを作ること。例えば、「りんご」と言う物と言葉をすでに知っている子どもに、学校で「りんご」と言う平仮名を教えるとします。この場合、「りんご」と先生が口で言いながら、それをひらがなで書けるように練習し、言葉の「りんご」と平仮名の「りんご」と言う、一つの繋がりを作ったわけです。しかしこの教育の結果として実際に期待されるのは、「りんごパン」と書かれた字を見てパンの中に何が入っているか分かったり、プリントにあるりんごの絵を見て(言葉を聞かなくても)そこに平仮名で「りんご」と書けるようになったり、言葉と平仮名以外の繋がりのネットワークが(勝手に)生まれることなのです。「勝手に生まれる」「期待される」と言いましたが、ネットワークを作る部分は、実際には通常教育では教えられないことが多く、勝手に現れて当然のように扱われることが多いのです。</p><p> しかし発達に障がいがあると、りんごと言う言葉を聞いたら「りんご」と書けるけれど、「りんごパン」の字を見ても何が入っているか分からないことが頻繁に出てくるのです。「ああ、スーパーで見て役に立つから、平仮名を学んだのか!」と現実場面で気づく、本当の学びの瞬間が必要なのです。しかし、「一つ教えて100を学ぶ」ことを当然のように学習者に求めてしまうのは、定型発達とか発達障害とかそういう枠組みを超えて、学習者にとって全く理不尽なことだと思います。通常教育でも、やはり全てのネットワークは勝手に現れないのです。「教えたからわかるでしょ?」は先生の都合から来る言葉なのです。</p><p> 学校では教えてくれないネットワークの部分を補ってくれるのが、予備校の有名な先生だったりします。例えば歴史の授業なら、世界史の年表を見て1800年に何が起こったかだけ学んでも、この情報が頭の中で勝手に繋がってネットワークを作っていくわけがない。同じ時期に日本で何が起こっていたのか、それが現代の生活にはどう影響するのか、史実を様々な角度から生徒の興味や身近な出来事や、興味のあることにネットワーク化させて学習を手助けすることが大切なのです。というか、それが教育の本当のところで、本当に良い先生は学校でも塾でも常に行っている部分なのです。</p><p> 言葉の遅れのある生徒を教える際にも同じことが言えて、単語の意味をいくら教えて行っても、それだけでは話せるようにはならない。それを生活場面(子どもの場合、その大部分が遊び場面)で使って、言葉を話したから自分でも遊びが楽しくなった、他の人に伝わって遊びが楽しくなった、こう言う体験をすることで、徐々に言葉と、遊びの体験と、様々なネットワークに発展していくのです。これが、ABAで言うとナチュラルなタイプの教育(NET: Natural Environmental Trainingなど)と言われるものです。ただし、実際にはこの大切さについて、本当に理解してもらえないことがあります。学校でもそうですよね、単元だけを教えていって「こんなに進んだ」と言いたい。その方が何となく早く教育を成し遂げた気持ちになる。しかし、本当の意味でのネットワーク作りがないのであれば、それは結局やっていないことと同じ。焦らずに、地道に遊びを続け、その中で本当に使えるスキルを獲得していくことは、何となく「先に進めている」感というか、「できた」感と言うか、達成感が得られにくい。早くチェックマークをつけて、「これもやって、あれも教えて・・・」と先に進みたい気持ちを抑えて、教えたことを楽しく使いこなせて、しっかりネットワークが出来上がるところまで持っていくこと、これが大切になります。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-87221356912626206382022-05-27T17:25:00.003+09:002022-05-27T17:25:55.650+09:002袋のクッキー<p> 先日こちらの教室で、保護者と少しじっくり目にお話をする機会がありました。この日の悩みの内容は、療育というよりも教育に関する夫婦間の意見の違いについての悩みでした。普段は控えめなタイプのお母さんなのですが、この日話したいことがたくさんで、一生懸命お話していただいて、そしてひと段落した時には、ほーっと体の力が抜けたようでした。気が付けば、子どもは母が準備してきた朝ごはんの残りをカバンから出していました。「そう言えば、朝ごはんをゆっくり食べている時間がなくて…」とお母様。お腹が空いているなら、今食べさせましょうね、と子どもに食べさせていながら、ふと私も気づきました。この状況をよく考えると…絶対にお母様も朝ごはん、食べてませんよね。子どもの食事を自身の食事よりも優先させる母親が圧倒的に多いんです。既にお昼前の時間です。相談したいことで頭がいっぱいの時ほど、子どもの準備や世話は普通にこなせても、自分の食べることとか、忘れてしまうものなんです。朝ごはんの残りを子どもが食べている間に、お母様にも教室からクッキーを2袋出しました。ママがクッキーの袋を一つ開けると、子どもが寄ってきて欲しがり、ママはそれを子どもにあげてしまう。母親ってそんなものです。自分も食べていない筈なのに、子どもを優先させてしまうんです。結局もう一袋のクッキーは、私が子どもと遊んであげている間に、こっそりと食べてもらいました。クッキーが2袋必要なのは、こう言うことです。</p><p> ここから学べること一つ目は、相談場所を作ること。子育てをしていると、「どうしても今話したい」って言う時、ありませんか?いつでも相談できるお友達がおられる方は良いのですが、子どもの悩みっていつ起こるのか予測不可能なんです。ですから、「今ここで、どうしても」という時に、必要な相談を常に誰かにはできるように、相談できる相手との関係性を1人でも多く作っておく方が良いのです。ぜひ療育機関でも、普段から少しずつ、大したことのない話題からでも良いですので、相談しておいてください。何かあった時に相談できる関係性を作っておいて欲しいからです。こちらの教室では、予約制ということではなく、いつも通りの療育の時間でも気軽に保護者が相談できるような雰囲気を作るようにはしています。子どものこと、家族のこと、園でのこと、明日に回さずに必要な時に誰かに話すことが、子育てをする上での心の健康上、とても大切なことなのです。</p><p> 気になさる方もおられると思いますが、療育先でも、夫婦間の話をしても良いんです。これって、普通の教育ではあまり聞きませんよね。でも発達に障がいがある子どもの子育ては、定型発達の子育ての何倍も、何十倍も一筋縄には行かず、迷う保護者が多いのです。こういう時に、必ずしも夫婦間の意見は一致せず、子育ての疲れも重なって喧嘩になることも多くあり、2人とも悩み、苦しんでいる場合が本当に多い。だから、療育先というのは、そういった悩みを聞くこともお仕事の一つに設定されている場合が多いのです。</p><p> もう一つ学べることは、ストレスがあった時にも、まずは深呼吸して食べること。話をしっかり聞いてもらったら、このお母様も、フーッと一息つけました。そうすると、周りのことが見えてきて、「ああ、私ってお腹減ってたんだ」とか、自身のことにも気付けたりします。そして少しでも何か口に入れておくと、血糖値が上がって、ポジティブなことも考えられたり、解決策も見えてきたりするものです。例えば飛行機に乗ると、緊急時の脱出口やら酸素吸入のマスクやら、色々説明がありますよね。酸素吸入のマスク、「子どもにつける前に親が先につけてください」と必ず説明されます。そうなんです。親が先に倒れたら、面倒を見る大人がいなくなってしまうからです。子育ても、まずお母様が健康で、子育てがその基礎の上にある。でも、子どもに食べさせる前に自分が食べるのって、何だか抵抗がありません?悪い親のようなイメージありません?親が先に食べるのは本来からすれば悪いことではないはずです。でも、人前ではなんだか悪い親のようで恥ずかしい。まあ、できる限り一緒に食べましょうよ。オヤツやスナックは、子どもの分だけでなく、親の分も用意しましょう。特に夕方の時間は、血糖値が下がってイライラが高まりやすい時間です。そうなる前の、もう一袋(親の分)のクッキー。大切です。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-39966791196786577352022-05-20T18:23:00.000+09:002022-05-20T18:23:14.392+09:00モンスターペアレントと言論の自由:学校教育に親が物申すこと<p> 「おいしい給食」と言うドラマを見ました。俳優の市原さんがメチャメチャ良い味出してるドラマですね。ドラマ自体はエンターテイメントとして見てて面白いと思うのですが、学校給食って私は良い思い出がありません。私の場合好き嫌いはあまりない方で、給食が食べられずに困った思い出はないです。また、無理矢理食べさせられたような記憶もない。でも、単純に給食が美味しかった記憶がない。美味しくないけれど、仕方のないもの…給食はそういうイメージでした。</p><p> でもこのドラマ、おいしい…給食?給食に美味しいという形容詞、つけて良かったかしら?皆さんは学校給食、好きでしたか?私が見たドラマのエピソードは、「ソフトメン」と呼ばれるビニール袋に入った細めのうどんのような麺が取り上げられていました。このソフト麺をカレーとか、その他<u>からめる</u>タイプの具材と一緒に食べるのですが、ドラマではこれが「給食の4番バッター」のような表現で颯爽と登場し、皆が嬉しそうにこの麺をすする。驚きました。ええ!?これこそが、学校給食の私の記憶の中では、特に美味しく<u>ない</u>もの、かつ頻繁に出てきて<u>嫌な</u>ものと位置付けられていたものでした。ドラマの中でも袋の上から手で4等分するシーンがありましたが、ソフト麺なので手でもフォークでも簡単にブツブツ切れる。別に味付けがついている麺ではないのですが、歯応えのない食感なのか、小麦の味なのか、なんだか分からないけど、すごく美味しくない。でも確かに、特に文句言っている人も聞いたこともない。やっぱり、そう思っているのは、私だけですかね?あの美味しくないものが、世の中では「給食の4番バッター」等ともてはやされている?4番バッターって、スター選手ってことですよね。給食のハイライト。私にはそんなこと言う意味がわからない。嫌いなのは私だけ…やっぱり私の意見はマイノリティー(少数派)か…と思いました。だから友達少ないのか…。</p><p> こういう「ええ?私だけ?」と言う気持ち、実は、特別支援の生徒を持つ保護者は、学校でよく感じる気持ちなんです。支援の必要な子どもって、当たり前ですが少数派です。基本的にみんなと一緒のやり方で学んだり、みんなと一緒に行動することが難しい。でも、日本の学校教育は大多数に合わせようとする社会的な圧力が強い。極端に言うと、大多数はの人のやりたいことは「普通」と呼ばれ、少数派のやりたいことは「わがまま」と呼ばれる傾向があるのです。私だけわがまま言えないから…。少数派の私だけが我慢すれば良いから…と涙を流しながら言いたいことを言わない親が、どれだけ多いことか。</p><p> 例えば食物アレルギー。私の住んでいる愛知県清須市の小学校では、アレルギーで給食が食べられない人は、保護者がお弁当を作って持たせることになっています。公立の学校の給食がアレルギー対応していないって言う時点で欧米ではアウトです。十分に食べさせられない家庭だった世の中にはあり、アレルギーだからといって学校で食べられないなんて、公立学校としてはあるまじき対応です。まあ、対応できないところまでは、譲るとしよう。でもつい最近まで、その持たせるお弁当の内容を、他の生徒の給食に合わせて欲しいと保護者が学校側に要求されていたそうなんです。給食がカレーの時は、カレーっぽいもの。餃子の時は餃子っぽいものを。はあ?なんで?他の子が羨ましがるから、ですって。もはや理解不可能です。何を言っている?おかしくないですか?この感覚。給食を食べられる多数派に、少数派は食べられないだけでなく、持参する弁当まで合わせることを平気な顔で学校の先生から要求されるのです。毎日泣きながら給食に合わせたお弁当を作り続けた保護者がきっといたでしょう。おかしいって、なぜ誰も指摘しなかったのでしょう?できない雰囲気があるからです。</p><p> 他にも例はあります。iPadのようなタブレットにPECS等のコミュニケーションのアプリが入っていて、口で話せない代わりに、アプリでコミュニケーションを取る生徒がいます。その生徒に対して、他の生徒がタブレットを見て羨ましがるから、学校でタブレットの使用を禁止しますと言われた保護者がいます。これこそ、教育者としてあるまじき発言ですよね。はあ?頭おかしいんじゃないの?と保護者の代わりに言ってあげたい。コミュニケーションのアプリを禁止することは、話せない子にとって「黙れ」と言われるようなものです。学校の先生からタブレット禁止を伝えられた時に、「ええ?何言ってるの?それ、おかしいと思うの、私だけ?」と保護者は何度自問自答したことでしょう。でも、先生にはっきりとそれがおかしいと言える親が果たして何割いるでしょうか?きっと数%じゃないでしょうか?たとえ他の子が羨ましがったとしても、子どもに必要なことを必要だと言える親は、モンスターペアレント扱いしてはいけないのです。こんな時代錯誤が起こってしまうことが恥ずかしいことなのです。例えばメガネをするのに「他の子が羨ましがるから」と断れるケースはないですよね?それは、メガネが多数派になってきて、どうして必要なのかを皆知っているからです。特別支援はそういう知られている障害ばかりではないのです。障害の内容があまり知られていないことで、こんな苦しい思いを強いられるのは、もう終わりにして欲しい。少数派の意見に耳を傾ける姿勢を社会全体で作る必要があるのです。</p><p> 欧米のような個人主義が発展しているところで、例えば車椅子の生徒が学校に入学したら、段差のあるところにスロープが作られると言った、少数の人にも優しいバリアフリー精神が生まれました。「出る杭は打たれる」日本の文化では、教員全体にも、保護者全般にも、バリアフリーはあまり浸透してはいない。「スロープまで作らなくても良いんじゃない?入りたければ、手伝ってあげるよ」と言う意見は、表面上もっともらしい優しさがありますよね。でも要は、少数派の意見は同じように重要ではなく、多数派が上から目線で「手伝ってあげる」と言う世の中なのです。みんなが楽しく生活する場が学校なのですから、できる限りどの子も自分の意思で人に頼らずに生活できる場を作るのが、当たり前なのだと、皆が意識を高めて欲しい。自分も少数派になった時に、初めて気づくのです。そう言う社会を作ってきて良かったと。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-62080091220736384432022-05-13T12:46:00.000+09:002022-05-13T12:46:13.039+09:00注意する派?しない派?:フィードバックと褒めること<p> 公園で子どもと遊んでいると、他のお父さんと子どもがキャッチボールをしに来ました。小学1、2年生かな?と思える男の子、なかなか上手にお父さんとキャッチボールをしています。何とはなく見ていると、お父さんの投げたボールがうまく取れず、お父さんからアドバイスを受けると、「うるせ〜クソジジイ」と言いました。小学校1、2年生でそんな言葉をもう覚えてしまうのですね。想像ですが、お兄ちゃんがいるんじゃないかな?と思って見ていました。お兄ちゃんがいると、良いことも悪いこともかなり早く学習していきます。そんな悪い言葉、お父さんはどう反応するのかと思って見ていたら、「ジジイじゃねえ!・・・(声を小さくして)初老だわ。」と言っていました。中々面白い。座布団一枚。</p><p> そうです。親に「ジジイ」はダメです。このお父さんも「ジジイじゃねえ」とすぐに訂正していました。ダメですよねえ。最近公園に行っても電車に乗っても、子どもの悪い行動をしっかりと注意することを親がしない場合が多くて、びっくりします。別におしっこ漏らすほど怒る必要はないですが、少なくとも悪いことは悪いと言って欲しい。</p><p> ABAの中では、子どもの行動について、それが良い悪いなどの評価を伝えることをフィードバックと言います。フィードバックは勘違いも多い技法の一つなので、紹介しますね。例えば、子どもが良い行動をした時には、「すごいね」「よくできたね」と褒めますよね。同様に悪い行動をした時も「それはしないよ」「良くないね」と伝えることになります。「よかったね」と行動をほめて、適切な行動を増やす強化の部分は非常にわかりやすいので、どなたにも納得してもらいやすいです。しかし良い行動が起こらなかった時、間違った行動が起こった時、どうすれば良いのでしょう?</p><p> 間違った行動をする時、行動をする人が、その行動が間違いだと知らないと困るので、まずそれを伝えます。例えば、カーナビでルートを間違えた場合、カーナビは「間違えました」とは言いませんよね。不必要な罰は与えない。しかし「ルートを再検索をしました」とルートが変わる。これは間違いを指摘することと同じになるので、フィードバックになります。指摘するだけでなく次の適切な行動をプロンプトするのが、フィードバックの役割にもなります。ただ勘違いしやすいのは、「間違えました」と言わないからと言って、間違いを指摘しなかったわけではないのです。できる限り早い段階で再検索してルートが変わることにより、間違った行動を取り続けないようにしてあげることは重要です。ですから、適切な行動を早く誉めるだけでなく、間違った行動もできるだけ早くフィードバックをしてあげて、適切な行動に置き換えてあげることが大切なのです。</p><p> ただ、ここで別問題。間違った行動ではなく、攻撃行動、危険行動などの絶対やめて欲しい行動だった場合は同じ対応で良いのでしょうか?攻撃行動の後には、はっきりとダメだと言うことを、強めの口調で伝えます。例えば「人は叩かないよ。やりたくない時は休憩ってお願いするんだよ。」と、やらないことをしっかりと伝え、その上で適切なやり方を教えるほどと少し違いますね。「ダメ(人は叩かない)」と強めに伝える点、先ほどと少し違いますね。攻撃など社会的に悪い行動は、間違える行動よりも、本人にとってマイナスな結果を生みやすい。例えば攻撃を繰り返す子どもは、「あの子は叩くから」と一緒に遊んでもらえなくなる可能性が高く、できる限り早くゼロにしてあげる事が、叩く側の子にとっても最善だからです。攻撃行動の理由はいろいろあるかもしれません。例えば、欲しい物が上手く伝えられずに、どうしても手が出てしまったかもしれません。適切な伝え方(代替行動)を教えるとともに、「その行動(攻撃行動、危険行動)は許さない」と言うことをはっきりと最初から伝えること、そしてそのためにしっかりと大人が見ていると言うことを伝えることが、できる限り早くその行動をゼロにするために、必要な場合が多いからです。適切な行動を褒めるだけで注意をしなかったがために、長いこと攻撃行動を子どもが続けてしまう危険性は、避けたいのです。</p><p> そして「ダメ」「やらない」「やめて」と伝えることには、実はもう一つの役割があります。それは適切なネガティブな感情表現の手本です。例えば、攻撃行動をされて嫌な思いをする被害に遭ったら、被害者として気持ちをどう表現したら良いですか?強く「やめて」と言って欲しいですよね?そこでストレートに「嫌だ」と言うことを、適切な表現で伝えるようになって欲しい。この適切なお手本がないと、学校で友達から嫌なことをされた時、どうしたら良いか分からないのです。大人も子どもから叩かれたら「やめて」「いや」とはっきり強い口調で伝えて良いのです。叩かれた時には、本人にもそう言って欲しいからです。</p><p> こうやって話すと、では「だめ!」「やめて!」とたくさん言えば、悪い行動がなくなるのか?と勘違いされてしまう人もいます。先ほどもフィードバックには適切な行動をプロンプトする効果が大きいと言いましたよね。適切な行動を引き起こして褒めて強化する回数が、注意する回数の何倍もあって、初めて注意する部分が効果を持つ。例えば人から気を引きたい生徒は、だめ!と注意することが逆に「強化」となって行動を増やしてしまうことも研究でわかっています。そうならないためにも、気を引きたいと思わせないぐらい普段から褒めている必要があるのです。ABAの実践現場で言われることの一つに、「4対1」があります。褒める回数が注意する回数よりも少なくとも4倍多い必要があると言われています。普段から頻繁に、すごく褒めていれば、だめ!と注意することが強化となって問題行動を継続させる可能性は限りなくゼロに近くなります。注意を効果的にするためにも、褒めることの重要性は欠かせないのです。</p><p> 最初の例に戻ると「クソジジイ」はどうしましょう?親にクソジジイと言って良いかどうか、あなたはどう判断します?</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-35023474645520495492022-05-09T08:38:00.000+09:002022-05-09T08:38:38.391+09:00学習障害、学校教育への疑問はどうするの?<p> 実は昨年のクリスマス頃、名古屋市の教育委員会の方と懇談会を持つ機会がありました。教育委員会のお偉い方々とミーティングができるなんて、一体どんなことかと申しますと、きっかけは、名古屋市議会に提出された保護者からの手紙でした。読み書きなど特定の分野において困難を示す学習障害は、一般に通常の知能を持ち、会話にも社交面にも問題がありません。俳優のトムクルーズが読むことができなくて学校をやめたと告白したことでも有名でしたね。今やクラスに何人かいてもおかしくない状態。ただしその生徒さんの場合は、障害の発見も遅れ、支援級に行ったり、普通級に戻ったり、その中で学校の問題点、例えば適切な合理的配慮が遅れたこと、個別支援計画がシェアされていなかったこと、支援級で必要なカリキュラムが教えられていなかったことなど、様々な困難に悩まされました。この手紙を受けて、教育委員会のトップである教育長が議会で謝罪するという大きな事件が起こったわけです。</p><p> これを受けて、議員さんのお力添えを受けて、当事者の方と、親の会の方、私のような支援事業を営む者も交えて、小さな懇談会が開かれました。議員さんから、今回は話を聞いてもらうだけで、返答はまだもらえませんよ、とのこと。良いです、良いです。こんな懇談会が得られるなんて、またとない機会ですし、返答は後ででも。そのようにして開かれた懇談会では、特に当事者本人からの言葉が皆の胸を打ちました。発見が遅れたことについて、どうして読めないってお母さんに言えなかったの?と質問されて「馬鹿だと思っていたから」との返答。将来は何になりたい?と質問されて「将来は特別支援級の先生になりたい」との返答。こんな率直な受け答えができる利発な子が、どうして馬鹿なことがあるかと、きっと将来は先生になれるよと、参加者皆が涙ぐんだ瞬間でした。</p><p> 数ヶ月後、保護者が回答について教育委員会に打診すると、「回答するつもりはありません」とのこと。どう言うことでしょう?さらに「もし回答するにしても特に進展はないので、あまり意味のないものになります。それでもよろしければ議員より連絡をいただきたい」との返答を受けたそうです。特に進展はないとは、どう言うことでしょう?もちろん回答は必要ですと議員さんを通して回答を要求してもらいました。その内容を大雑把に言うと、現在既に行われている教育システムを説明するだけでした。つまり教育委員会は、現在すでに適切な教育が行われているとの認識だと言うことです。びっくりです。当事者も参加して、学校教育に何か問題点があって苦労している人がいるからと、説明しましたよね?国語の問題じゃないですが、逆に、この流れで教育に問題、なかったですか?と質問したい。保護者と当事者の気持ち、聞きました?そしてこのような苦労をもう他の誰にもして欲しくないから、そう言うことが起こりにくい学校のシステムになるように、少しでも学校教育を改善して欲しいと言う保護者の願いは?結果として懇談会での保護者と親の会の切なる願いは、学校教育という大きな城に、全く届きませんでした。驚くほど冷たく突き放された手紙に、当事者本人は「何も変わらないね」との反応だったとのこと・・・ああ、何てことでしょう?こんな素直な良い子に、見せてはいけない大人の世界を見せてしまった。教育委員会との懇談会で、少しでも学校教育の改善につながれば、と淡い期待を抱いていた私が甘かったか。</p><p> もちろん親の会や、打たれてもしぶとい私などは、このようなことで泣き寝入りすることはないです。次の手はまだ見つかりませんが。でも、他の親はどうでしょう?親は、子どもの教育で納得いかないことがあった場合、どうすれば良いのでしょうか?議員さんの力を借りて、教育委員会と懇談会をするまでしても、この結果です。もしかしたら、教育委員会というところは、何かを改善させることの手助けできる部署では最初からないのかもしれません。教育システムそのものの勉強から始めろということなのでしょうか?教育大学の授業を担当している私ですが、そもそも教育を分かっていないということかもしれません。</p><p> もちろん現在の学校教育が必ずしも悪いとは、私はそもそも思っていません。素晴らしい先生がたくさんいるのを知っています。ただ今の学校教育では、その素晴らしい先生たるための、先生へのサポートが、あまりに少ない。余裕やサポートのない教育現場では、生徒が最低限法律で守られるべき権利、例えば個別の教育支援計画の作成と実施なども、守られないケースが頻繁に起こり得る。そしてそれをチェックするチェック機能や、何か問題が起こった時にそれを修正するシステムが存在しない。学校に通う時間は本当に長い。本当に良い結果を生むだけの時間と力が学校教育にあると信じたい。教育は大切なのです。当事者から見れば人生が左右されるのですから、「全体には良いから問題がない」は当事者から見たら、大問題なのです。</p><p> 皆様意見をお待ちしております。次はどんな手で学校のシステムを改善させるに至るのか?親の会や保護者の皆様と共に、今後も活動を続けていきます。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-53842547230899898852022-04-28T18:41:00.004+09:002022-04-28T18:41:36.656+09:00夢、思考、観察できない行動、見えない行動の見える化<p> ちょっと前、山崎豊子の「大地の子」を読んでいるという話をしましたが、読み出したら本当に止まらないですね。面白いというか言葉で表現して良いのか、書いた人の熱量が凄すぎて、ストーリーの展開と勢いに圧倒されて、目が離せない。その前に読んでいたのが「鬼平犯科帳」だっとので、まあ勧善懲悪で安心して読めて、割と楽に楽しめたのと良い比較になりました。「大地の子」は読書に対する集中力を必要とするストーリーで、読む側のエネルギー消費量も高いと言うか、同じ読書でも楽しみ方が全然違いますね。結局通勤電車でも、短時間で乗り換えるのにちょっとでも読み、寝る前にも読んで、を繰り返していたら、遂に夢にまで出てきました。本が夢に出るって・・・私の頭の中でのドラマ映像化と言うことです。本で読んだことが夢に出てくるとは驚きました。ちなみにドラマ化されている本ですが、ドラマの方は見たことないです。夢では登場人物の顔はハッキリしていないのですが、カラーだったと思います。戦後間もない頃の中国の設定ですから、詳しい様子はよく分からないですが、例えば服装とか、「人民服」としか記述のない服装や当時の家の様子なども、ぼんやりとですが映像化されていたと思います。きっと想像で補うんですよね。私の頭ってすごい。そうそう、鬼平犯科帳も何となく映像化しながら、想像しながら読んでいたと思います。江戸時代のちょんまげの侍とか。</p><p> よく考えると、人って凄いですよね。文字を読んで、それが頭の中で勝手に映像化される・・・。もしかすると理解を映像化するのではなく、文字を理解するために映像化があって、それが内容の理解につながるのかもしれない。頭の中であまりに自然にやっているので、普段そういうプロセスが行われている(行動が起こっている)こと自体に、気づくこともない。</p><p> こういった頭の中の思考のような、観察できない行動をABAの専門用語で「covert behavior」(隠れた行動)と言います。そして「疲れた」「お腹が減った」状態とか、誰にも見られない本人だけしか分からない体の状態を「private event (私的な状況)」と言います。「嬉しい」「悲しい」感情とかは・・・状態?行動?まあ、見えないことだけに、行動だとも完全に言いづらいですが、感情が起こるには、何かしらのホルモン分泌は行われていそうです。分泌は死人にはできないですね。死人にできるかどうかで行動と行動でないことを分けることを「死人テスト」と言いますが、このテストをパスするので行動(covert behavior)だと言うことにしましょう。これに対して、感情表現、その気持ちを表情や行動に表すことは、観察できる行動になるので「overt behavior(明白な行動)」と言われます。</p><p> 実はこの観察できない行動や状態が絡むと、教えることが非常にややこしくなる。例えば感情表現、定型発達の子どもは教えなくても感情が表情に現れやすい。だから悲しそうな表情の時に、「そうだね、悲しいね」と、その気持ちは悲しい気持ちなんだと言うことを教えられる。けれど自閉傾向があったりして、悲しい気持ちがあってもそれがストレートに表情に出にくい場合、気持ちを教えることが非常に難しくなるのです。また、思考も同じ。先ほどの夢のように、通常私たちは言葉で言われたこと、読んだことをイメージ化することができる。これができないとなると、どうなるでしょう?「理解できない」ことになります。イメージ化したり、思い出したり、言葉を頭の中で繰り返したり、私たちは実はたくさんの見えない行動(covert behavior)をしているので、今見えている行動がそれによって上手に引き起こされるのです。例えば、電車に乗るだけでも、知らない間に何行きの電車に、何時何分に、何番ホームから乗るのか、私たちは考えている。頭の中で見えない行動をしているからこそ、間違いなく電車に乗れるのです。</p><p> 発達障害があると、こう言った見えない行動が上手にできない場合が多いのです。定型発達のように見えない行動が放っておいて勝手にうまく使えるようにならないのです。ただ、見えない行動なので、教えにくい。この場合は、見える行動にしてもらうのです。思考は、できるかぎり見えるように言葉にしたり、指差しなどの行動にあらわしてもらいます。例えば、電車の運転士さんや、車掌さんは指差し確認をしますよね。それは、非常に理にかなっていることで、通常なら頭の中でする安全確認を、実際に見える行動に置き換えることで、他の人も観察できるだけでなく、本人もしっかりと安全の確認を遂行することが可能になるのです。例えば楽しかったお遠足のことを思い出して話すことも、普通なら遠足に行った時をイメージとして思い出しますよね。このイメージする行動は見えるように視覚化できないので、写真を見てもらったりします。写真を使って一緒に、その時のことを話せば良いのです。</p><p> 見えない行動の「見える化」は難しいのですが、意識して考え始めると、意外とできる部分もありますよ。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-2631573533063795252022-04-22T17:22:00.002+09:002022-04-28T15:41:25.557+09:00新学期(3月4月)の問題行動<p> 4月に入って新しく教え始めた愛知教育大学での教育相談の授業も、何とか無事2回目を終了することができました。「無事2回目を終了」なんて、なんて大袈裟なと思われるかもしれませんが、それが今時の非常勤講師も大変なんですよ。</p><p> それぞれの大学にはそれぞれのシステムがある・・・つまり、教室の使い方から、wifiの入り方から、契約の方法から微妙に違う。まあそれは普通ですよね。今回大変だったこと、と言っても過去形ではなく現在進行形での大変なことが、ハイブリット授業の実行です。ハイブリット授業?何となくお察しの方、その通り。授業の半分は対面で、半分はオンディマンドでやって欲しいと言う意味です。と言っても、最初の7回はオンディマンドであと8回は対面で、と言うことではなく、コロナ対策上教室にいる生徒の人数を減らすために「毎回半数の生徒は対面で、半数はオンディマンドで授業を受けさせよ」と言う大学側の無茶振りなんです。オンラインなら全員オンラインにしてしまえば、生徒も講師もやりやすいのに・・・どう考えても講師の授業準備の時間が必要以上に増えてしまう。結局は私の場合、コロナ時代に欠かせないzoomを使って授業を録画し、それを生徒がオンディマンドで見られるようにネット上に上げる方法にしました。自身のラップトップを持って行き、ラップトップの画面をプロジェクターを使って対面の生徒に資料と私の顔を見せながら授業をし、生徒の反応も気にしながら、録画されるべきラップトップ上の画面もチェックして・・・。これでは授業中もリラックスして話ができない。</p><p> それと同様に難しいのが、システム上でのクラス管理。宿題もオンラインん上で提出してもらい、オンディマンドのビデオもシステム上にアップロードして、きっと成績評価もシステム上で?・・・そこまで先が見えない。毎日目の前のことだけに集中する以外にない。システム自体は分かってしまえば難しくないのですが、特に3月は全く使用方法がイメージできないままでした。誰に聞いたら良いのかも分からず、ちょっとずつ誰かに質問して答えをもらい、こんな状態で4月の授業ができるのかと言う不安のまま、綱渡り状態でやっと4月の2週目が終わり。時々「ウキー」と叫んで、髪をかきむしって走り出したくなる。</p><p> よくよく考えると、これが私の教える生徒(発達に遅れのある生徒、言葉が上手く分からない生徒、自閉傾向のある生徒)と同じ状態なのかもしれませんね。新しい環境や、これから来るだろう変化に対して、耐性が弱いんです。「何が起こるか予測つかない」「どうなるのかイメージつかない」「どうやったら分かるのかが、分からない」「誰に聞いたら良いのも分からない」きっとこんな状態です。特に園を卒業して小学校に入学する生徒の3月は、荒れて当然ですよね。何が起こるか分からないけれど、皆「小学校に入るから・・・」と話している。小学校って一体何?どうすりゃ良いっての?・・・私じゃないけれど、きっと「ウキー」と叫んで走り出したい状態でしょう。</p><p> 就学のような大きな生活環境の変化ではない場合にしても、4月は身体測定や医師による健診など、変化や不規則なことが多く、荒れる時期です。大体最初の1、2週間は緊張感で頑張っているのでまあ良くて、その後かゴールデンウィーク明けに疲れが出て、荒れますね。そして追い討ちをかけるように運動会の練習が・・・。私的には運動会なんてどうでも良いです。なくて良い。私も運動会で楽しかった思い出なんて一つもない(運動が得意ではない人なので)。大体あんな集団行動を強いられるのは、意味あるの?なぜか体操するための「体操体型に広がれ?」あれだけで、「できてない!」「やり直し!」と叱られる。気が重い。落ち着いた「いつも通り」が来るのは6月ですかね。それまで何とかみんな頑張って欲しい。学校、少し早めに帰ったり、休んだりしても、大丈夫ですよ。適度に頑張りましょう。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-87389939721525589542022-04-15T18:43:00.002+09:002022-04-15T18:43:54.649+09:00教育には積極的な自発の行動を目標に<p> 今、山崎豊子の「大地の子」を読んでいます。すごい熱量の本ですね。最初の1冊目はもう生々しすぎて、とても読んでいられない地獄絵図。なのに、何故か目が離せない、本が置けない。多くの小説は登場人物の会話の度に改行されて、文字が印刷されていない部分が結構多いのですよね。次々とページをめくって先に行ける。比較して「大地の子」は、こんなにドロドロした内容でも中々先に進めない歯痒さが、たまらない。</p><p> ふと気づくと、やっと小説が読める余裕ができたんだなあと。子どもが小さいと、どうしても自分の時間がないじゃないですか。ちょっとテレビを見るといった受け身の(見ているだけで自分では行動しない)時間は取れても、読むという積極的な行動が必要な時間は難しい。というか疲れ過ぎていて、何か行動をする労力が残されていない。私の子どもが少しずつ大きく成長してきて小学生になり、これだけの労力を要する本を読むまで体力が回復してきたなあと、しみじみ思いました。</p><p> 「積極的な行動をさせる」ということは、ABAをしていると非常に大切な部分になります。逆に、一般的な教育ではあまり重要視されないことが多い。例えば従来の教育では、先生が一方的にお話をしているのを、生徒は大人しく聞いていることが多かった。聞いていた内容を、本当に理解していますか?確認できないのです。先生が黒板に書いて、それを板書することがあれば、生徒は積極的に書き写す行動をしているので、聞いているだけよりは良いです。ただし、黒板を書き写すだけでは、書き写した内容を本当に理解しているかは確認できません。結局テストをすれば、テストの問題に答えられる生徒もいるし、答えられない生徒もいて、ばらつきが生じる。</p><p> それでは「理解した」とはどういう意味でしょう?頭の中の状態ですよね。テストのような問題を解かせることも1つの行動ですし、発言させることも1つの行動ですし、何らかの形で行動をさせて、いわば頭での理解を言葉や行動に表現して初めて、それが確認できるのです。「理解」ということは1つの行動ではなく、入ってきた情報を、さまざまな形で行動としてアウトプットできるということなのです。ですから、最初からそのアウトプットの行動の部分を積極的に引き起こして増やす(強化する)ことが必要となる。</p><p> 大学の授業では、例えば「ガイドノート」というものを私は使います。先生の講義を聞きながら、ノートの中の空欄を埋めてもらったり、意見を書いたり、質問に答えるためのものです。集団での授業ではどうしても全員に発言をしてもらうのは難しくなりますので、こうやってそれぞれが行動を積極的にすることで、理解が深まるわけです。</p><p> 幼児教育でも同じことです。一般的な幼稚園・保育園などの教育を見ると、時々「わあすごい」と声に出してしまうような素敵なペープサートや、可愛い人形劇や紙芝居のような、素敵な教材を作ってくれる先生がいて、それは素晴らしいです。ただ、あまりに教材が綺麗なために、先生自体はただそれを黙々と子どもに見せるだけで、先生と子どもとのやり取り(子どもの行動)が引き出せていない場合もよく見られます。本当に良い先生は、どんな大したことのない教材を使っても、その中で子どもとのやり取り(子どもの積極的行動)を引き出せる先生なのです。本当に良い先生の前では、子どもが積極的にどんどん行動するのです。良い発言や、そうでもない発言や行動もあるかもしれませんが、指示されたことではなく、どんどん自発的な行動が出るのが、良い教育をしているかしていないかの違いにもなると思います。</p><p> 特別支援の教育でもそうです。一見勉強っぽい活動をしていても、私は勉強ではなくその中での子供の自発的な発言の数を数えていることが多いです。どんなに楽しく積極的に自分で言いたいことが言えるようになったか?意外かもしれませんが、そこが最終目的で、私の作ったお勉強のプリントを上手にできたかできなかったか、そこが目標地点ではないのです。私の言うことをお利口に聞くだけでは、足らないのです。もっと積極的に自分から行動してもらうような工夫を必ず入れています。</p><p> ただ、多くの人にこのことは伝わりにくい。実際に私の教育の場面を見ても、お勉強をさせているのかと勘違いされてしまう保護者や教育者が多い。実際に子どもに受け身の勉強をさせて、どんどん「言われたことしかやらない」子どもが育ってしまう場合があまりに多い。いやいや、そうではなくて・・・と壊れたレコードのように、何度も何度も繰り返し説明させていただいてます。</p><p> </p><p> </p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-39100830014107417802022-04-08T18:43:00.001+09:002022-04-08T18:43:22.341+09:00集団ではなく個々のニーズを尊重する教育<p> 愛知教育大学の4年生向けの授業「教育相談の理論と実践」を担当することになりました。「愛知教育大学卒業」と言えば、名古屋・愛知県の教員では、出世頭ですよね。早く言えば、将来の校長先生や教頭先生を育てる大学です。そんなところで、私のようなABAという偏った考え方を持った専門家を、よく非常勤講師として採用してくれたと思います。繋いでくださったディスレクシアの会の吉田さんや黒川先生に、感謝してます。私の授業はもちろん一般的な教育相談の紹介もしますが、ABAもガツガツ取り入れて進めたいと思ってます。ABAも含めた幅広い教育の観点から様々な知識を学び、是非とも将来立派な校長先生や教頭先生になられて欲しい。</p><p> 従来型の日本の学校教育はどうしても「出る杭は打たれる」というか、軍隊型というか、それぞれの個人のニーズよりも全体のニーズを優先させる雰囲気がありました。「皆んな一緒のことをすることが良い」と。しかし、歴史の授業でも「大河ドラマ見た?」と聞いても、ほとんど生徒が見ていないらしいです。もうクラス全員がテレビを見ていた時代ではありません。それぞれがYouTubeで好きな人のチャンネルを見て、歴史でも知らない子は何も知らないし、逆に特別な知識をたくさん持った子どもも育ってくる時代です。自閉とか発達障がいのような「癖の強い」生徒でなかったとしても、それぞれの興味や背景にも大きな違いが生まれていますから、それぞれの個性を無視した教育は成り立たない。個々のニーズを大切にするために、全体としてどのようにすれば皆んなが幸せに暮らせるのかを考える。まさにABAの「個々の行動の分析」が、教育現場でもやっと使ってもらえる時代になる・・・?それは何十年か後の話かもしれませんね。</p><p> ちなみに、非常勤講師として最初から「やらかして」しまいました。大学から授業料の振り込み先の指定をする際に、個人としての契約ではなく、会社との契約にして会社に振り込んで欲しいというお願いを人事課にしました。理由は、私は子どももまだ小さいですし、お金よりも子供との時間を優先したいから、できれば会社の時間内で働いて、会社にお金が行くようにして欲しかったからです。ですが、人事課からは「ダメです」と即答が返ってきました。どうしてですか?と質問すると「法律違反だから」との返答でした。いやいや、何をおっしゃる。前の大学でもやっていたし、大丈夫なはずですと言うと、次の担当に代わりました。次の担当も「できません」との結論から始まり、理由は「労働基準法に基づいた個人との契約しかしない」とのこと。労働基準法?それなら労働者のためになるはずでは??と言うか、結局三人の担当と話しましたが、労働者側の理由すら一切聞いてくれていない。「それで良いですか?」と言うので「よくありませんが、大学の意見は聞きました」と嫌な感じで電話を切りました。なぜ個人のニーズを聞いてくれない?</p><p> どうしても納得できず、人事課に手紙を書きました。労働者に丁寧な説明もないのでは契約はできないと。結局紹介していただいた黒川先生に話が行き、人事課とは関係のない黒川先生が丁寧な理由の説明をしてくれました。実は今大学と非常勤講師との契約が社会問題になっているらしく、業務委託という形で個人で契約をしないことで、大学側が不当に非常勤講師の権利を虐げているとのことで、文科省などから非常勤講師の権利保護のための個人契約を徹底させたいらしいのです。そういうことか。でも、それならそう説明すれば良い。私の場合、その「権利保護」によって、私のニーズは無視される。是非とも個人のニーズを聞いて欲しい。しばらくして担当から電話が入り、「事情のわかる人からの説明がしたいからミーティングしたい」とのことでした(黒川先生から既に事情は説明されていましたが)。電話での担当の声は明らかに「怖い人」を扱うような感じでした。あーあ、授業を始める前から「問題児扱い」ですよね。ハッキリもの言う講師の何が悪い?</p><p> 個人のニーズを言って嫌な顔をされない時代に教育界もなって欲しい。特に発達に障がいがあると、全体には簡単に合わせられない。それでも学校に行く権利はある、学ぶ権利はあるのです。問題児扱いをしないで欲しい。それでも「学校に来ていいよ」と言う真摯な姿勢、メッセージが学校から欲しい。それって、望みすぎですか?</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-29765550018462271592021-04-23T17:52:00.005+09:002021-04-23T17:52:50.243+09:00ご褒美と強化子(好子)<p> 昨日2回目の親トレーニングのウェビナーをやりました。いつもの通りペラペーら気持ちよく話していると、「スライド見えていません」とメモをいただき、まさかの画面共有ボタンを押し忘れに気づきました。ああ恥ずかしい。朝から汗だくですね。まさかの失敗にもめげずに、頑張った私へのご褒美で外に出ました。コーヒーは良いですね。時価で値段変動のコーヒー屋さんがあり、こだわってるから高いのかと思いきや、まさかの一杯116円。コーヒーを持ってフラッと歩けば、偶然ビルの中のテラス席が空いている。見上げると名古屋のテレビ塔が。意外に良いですね、名古屋。ちなみにインスタにも写真をアップしてしまいました。さっそくインスタに振り回されていますかね?まあ最初のうちはそれぐらい楽しんでも良いでしょう。<span style="background-color: white; caret-color: rgb(38, 38, 38); color: #262626; font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, "Segoe UI", Roboto, Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 14px;">https://www.instagram.com/p/CN_-In8H76s/?utm_source=ig_web_copy_link</span></p><p> この日の親トレーニングは偶然「ご褒美」や「強化子」についてお話ししました。ご褒美イコール強化子と勘違いされている方が多く、そういう時もあれば、ご褒美が強化子にならない時もあります。ご褒美はもちろん嬉しいことなのですが、タイミングを間違えば行動を強化する力が発揮できないだけでなく、逆に間違った行動を強化することもあり、使い方が下手な人に限って「強化子はうまく行かない」とか文句を言ったり、「この子は教えづらい」などと子どもの責任に押し付けてしまう結果になることも。また行動の労力に対して強化子としての価値がそこまで高くない場合や、行動が起こらない他の場面でもそのご褒美が与えられてしまう場合など、全然行動を増やさない場合もあります。行動の後のみにそのご褒美が来ていないと、強化は起こりづらいのです(行動にくっついて意味があるところから、随伴性などとも言います)。簡単でよく知られている基礎的なことのようで、意外に使い方は難しいのです。嬉しいものは必ずしも行動を増やさないのです。使い方次第ですね。</p><p> ちなみに私のコーヒーはご褒美なので私にとっては嬉しい物ですが、私のウェビナーをする行動を強化しているわけではありません。ウェビナーをしようがしまいが、きっと何らかの理由をつけてコーヒーは飲むでしょうし、そういう場合は随伴性が壊れているので強化としても効果がないです。ウェビナーをする行動は、きっとウェビナーを見てくださっている皆様の反応によって強化されているんでしょうね。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-405881443203051950.post-52958747661358922712021-04-22T14:10:00.002+09:002021-04-22T14:10:38.962+09:00インスタグラム・写真の良さ<p> インスタグラムを始めました。「インスタ映え」という言葉が流行ってから随分経ち、今さらながら、時代についていくのも大変ですね。この年齢でも新しいことは学べるのですが、時間がかかりますし、江戸っ子親父のようにだんだん焦る傾向が強くなっている今日この頃。操作が上手くいかない度にイラっとしますね。スマホをうまく使いこなせず、「もうやだ!」と、ちびまる子ちゃんみたいにトイレにダッシュで逃げ込むこともしばしば。やっと操作に慣れ、少し落ち着いて写真がアップできるようになってきました。ちなみに以下のリンクから開いてみてください。<span style="background-color: white; caret-color: rgb(38, 38, 38); color: #262626; font-family: -apple-system, BlinkMacSystemFont, "Segoe UI", Roboto, Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 14px;">https://www.instagram.com/p/CN6fnp3nPhh/?utm_source=ig_web_copy_link</span></p><p> インスタと言えばやはり綺麗な写真。最初に教室のひまわりの工作の写真を載せたのですが、それがすぐに40くらい「いいね」が届き、「これはすごい」と勘違いしたのも束の間、それ以降に載せたものは1つ2つ程度ですかね。まあ「いいね」の数にあまり振り回されずに、地味に写真を載せていきます。</p><p> 確かに最近は(前から?)療育にも写真やビデオをフル活用するようになってきました。子どもにやらせたい活動はビデオに撮って子どもに見せます。ビデオモデリングと言って、ビデオに撮ってある方が、集中して見本を見て真似ができるからです。大人でもそうですよね。ご飯の作り方レシピよりも、クックパッドで写真やビデオがあった方が分かりやすい。教室の工作も、ご家庭で何度も作って欲しいですからできるだけビデオに撮りますし、そのままyoutubeにアップすることも増えました。(ちなみに、工作のYouTubeは、https://youtu.be/qKl6WipS6uI などです。参考までに。)療育中も楽しい活動はできるだけ写真を撮って、生徒に後から「今日は何が楽しかった?」と振り返らせます。その写真をそのままプリントアウトして、「写真日記」にして、「4月22日、ひまわりきょうしつで、こうじくんと、くろひげゲームであそんだ。たのしかった。」など、まとめてもらってます(場合によっては、大人が書いたものをなぞってもらうだけですが)。楽しい体験を写真と文章にまとめると、後から他の人にその楽しさを共有できるので、その効果はすごいです。他の人から「すごいね。くろひげ遊んだの?」と言ってもらえることの喜びは、そのまま話す・会話する喜びの体験につながります。</p><p> また写真は撮ることそのものも、良い趣味に繋がると考えています。例えば電車が大好きな子がいますよね。毎日見ても、毎日乗っても飽きないくらい好きな電車の良さを他の人と共有して欲しい。同じ電車でも、その日のその時間の太陽の角度や、天候や、中に乗っている人も違います。その子にしか分からないその電車の良さが、言葉で言えない分、写真なら伝わるかもしれません。毎日微妙な違いがあるのかもしれませんし、その良さをぜひ写真に撮って欲しいと思います。大きくなったら、それこそインスタグラムに自分のアカウントを持って世界の同じような趣味を持つ友達と繋がって欲しいと思います。「それそれ!その角度!」と、電車の良さを心から理解してくれる友達と繋がることができると良いですね。</p>Koji Takeshimahttp://www.blogger.com/profile/17841233012175265263noreply@blogger.com0